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教育は「人」を「人材」にする。曲がった木を製材して木材にするように。

 何事においても、深く突き詰めようとすれば、範囲は浅くならざるを得ない。で、人間関係にも言えて、深く知ろうと思えば人数は少なくなる。僕は共同体の限界人数が150人ぐらい、いわゆるダンバー数の150だと思っているのですが、それは、人間が信頼しあえる程度に深く知れる人の限界が、人の平均能力でそのぐらいだ、ということです。もちろん、浅く知るというのであれば、もっと人数は増えます。ホテルのドアマンが何千人の顔と名前を覚えているとか、Facebookの友達が何百人いるとかも、関係が浅いから出来るわけです。

 では、深く知るとはどういうことか。人間は一人一人、性格や能力など違います。同じ人は、いない。また、日によっても調子が変わる。もっとも、現代社会はそれでは成り立たないので「教育」によって、なるべく均一化した「人材」を生み出そうとしているわけです。人材、というのは、木材、みたいなもので、ちゃんと四角く整えるわけですよ。木を木材にするように、人を人材にするわけです。じゃないと、社会にハマらないわけです。設計図がそう要求していますから。

 人材と木材が良い例えだなと我ながら思ったので、そっちの話を進めますけど。我が家の梁(はり)、梁ってのは天井の上に横にあるやつですが、それは松の丸太を使っているんですよ。松の丸太ってのは、曲線なんです。粘りがあるとかで、梁に使われるんですけど。でも曲線の丸太ってのは、いわば「木材」ではなくて「木」なんですよ。そういう丸太を使って家を建てるには、大工さんの技術が要るわけです。曲線に合わせて、そこにつなげる素材を変えるわけですから。

 一つ一つが違う「木」を使って家を作るのは、技術が要るんです。宮大工さんとか、そういう技術でしょう。この木はどこに生えていて、どっち向きの斜面で育ったから、こうやって使おうとか、ベタな言い方ですが木は一つ一つ違うわけです。違う素材を適材適所で使う。でも、そういう木を使って組み合わせるのは、大変で、大量生産できません。だから、誰でも同じように使える「木材」を必要とするわけです。技術の低下が「木材」を要求する。そして「均質」な木材を生産するわけです。

 ということで「人材」も、作るわけです。その過程を教育と言っています。それは、現代社会が、そういう均質な人材を要求するからです。人材にも良い悪いはあり、「良い人材」になるというのは、曲がった木のままというわけではなく、太い鉄骨になるというようなことです。何にでも使えますよ、みたいな。でも、人間は本来、一人一人違いますから、太い鉄骨にもともと似ている人もいれば、似ていない人もいる。教育によって簡単に人材になる人もいれば、ならない、なれない人もいる。

 人間というのは「自然」です。人間は人工物では無いんですよ。だからバラバラなんです。そして、人間の幸せということで言えば、木が伸び伸びと育つように、その人なりに伸び伸びと育つことです。伸び伸びと育ったら「社会で使い物にならない」のは、社会が、そういう人を要求していないからです。社会の問題であり、人間の問題では無い、と思います。もっとも、それは僕の見方であり、何に基準を合わせるかに絶対的な理由はありませんから、社会が正しくて人間がおかしい、と思う人もいるでしょうが。単に、僕はそう思わないってことです。

 宮大工が「木」を使って家を建てるように、「人」を使って集団を作るというのが、人を生かすために必要なことです。そこの技術を磨くべきだと思う。村づくりってのは家づくりのようなもので、村づくりの技術を上げるということは、人材ではなく人を使って村を作れるということです。
それは、人材を組み合わせて利益を出すという、資本主義の中で「会社」を作る技術とは違うもので、そして、もっと難しいものであるとも思っています。そして、「木」を使って建てた神社仏閣が何百年と持つように、均一化された人材ではなく、「人」を組み合わせて作った村は、どんな会社よりの永続するだろうと思っています。またあした。

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