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繋がりを感じられない人

 『マザーツリー』という本を読んでいて。森の植物はネットワークで繋がっていて、栄養素(炭素)のやり取りも、根周りについている菌を通して行っている、という話。この話の本質は、生命というのはどこまで繋がっているのか、ということだと思います。僕が思う結論から言えば、全て繋がっているんだけど、その一方で全てが繋がっているようには「思えない」というのも、生命の性質なんです。

 森の動植物が繋がっているというのは、本当にその通りで、例えば、特定の植物の蜜だけを吸う虫なんかもいるわけです。その虫は、植物に依存している。一方で、その植物は、その特定の虫がいなければ受粉が出来ない。例えば、こういうような植物と虫の関係をどう捉えるかという問題です。別々の生命として見るのであれば(これは現代的な普通の見方)、植物と虫はお互いを「利用している」ということになる。

 一方で、繋がっているというか、一心同体であると思えば、この虫は植物の一部である、また、この植物は虫の一部である、とも言える。ヤギも、消化器官の中にセルロースを分解してくれるバクテリアがいればこそ、生きていける。このバクテリアは、ヤギの一部か。おそらく、ほとんどの人は、ヤギの一部であると考えます。

 人間の腸内にあるビフィズス菌は、人間の一部であると考えるのと同じです。ヤクルト1000を飲むときに、乳酸菌と助け合うために腸に付属してもらおう、と思っている人は、いない。主観的には、人間がヤクルトを「飲む」んです。

 人間とヤクルト、ヤギとバクテリアの関係は、植物と虫の関係と同じです。内部か外部か、と思うかもしれませんが、バクテリアはヤギの「外部」にいるんです。腸内の空間は外部です。ドーナツの穴は、ドーナツには含まれないでしょう。パイプの中の空間は、パイプでは無いでしょう。ヤギの腸内空間も、人間の腸内空間も、外部です。(ま、内部にもミトコンドリアのように、人間では無い生命はいくらでもいますけど)

 では、なぜヤギのバクテリアが内部に見えるかというと、単に、人間に似ているからです。見ているのは我々、人間であって、人間に都合の良い見方をします。人間の都合というのは、どういうことかというと、人間の身体が世界から独立して存在している、という見方です。本当はそうじゃないんだけど(繋がっているんだけど)、世界から独立しているというように世界を見ないと、この世界の中で人間が行動できないでしょう。だから、人間は自分の身体を「自分」と思い、外側の世界を環境と思うんです。

 もし、その感覚が無くなったと思ってください。事故とか病気で、脳のその部分が損傷すると「自我」が無くなって、ある意味、悟ったみたいになるそうです。体が水のようになって、世界と一体化したように感じるそうです。ドラッグとかでも似たようなことが起きるそうですが、やったことないので知りませんが。自我が無くなるとそう感じるということは、逆に言えば、脳の働きによって「自我」の範囲を決めているということです。自分が自分であると感じるのは、脳の働きです。

 自我がなければ、全てが自分であり、世界と溶け込むわけですが、そんなことになったら、どうやって食物を取ったりするんだ、と。積極的に生きられなくなりますよ。死が怖く無くなるでしょうが、同時に、生きるモチベーションも失います。

 ふと仏教を思い浮かべましたが。仏教での悟りの理解というのは、僕の超雑な理解では、自我を無くすことだと思っています。でも、自我が無いと、生きられない。だから仏門に入った人は托鉢して、世俗社会に恵んでもらって生きるのだと思います。それが嫌なら、禅宗のように自給自足生活することです。つまり、世界と一体化するという思想(自我が無くなるということ)になると、世界の中で生きにくいんですよ。だから、恵んでもらうか、山奥で自給自足するか、ということになるわけです。

 生命というのは、おそらく、競争するようにデザインされていて──ま、デザインというと神様がいるみたいな感じになりますが、単に、競争するプログラミングされたものが生き残ってきたのだと思います。そして、競争するためには「自我」の範囲が無いといけない。その自我を拡大させるという欲が無いといけない。

 この世界は、本当は、繋がりあってバランスをとっているんですが、そのバランスを取るためには、おのおのの生命が「自分」という枠を持ち、その枠を拡大させようという力学を働かせているわけです。力と力が釣り合ってバランスをとっているんです。

 これ、結構久々に重要なことを思いついたと思っているんで、繰り返しますけど。自我を拡大させることによって、力学のバランスをとって、世界は「繋がり」を保っている。だから、どの生命も世界を正しく把握は出来ない。正しく把握したら──これは、全ての生命も環境も繋がりあっているということですが──、その生命はモチベーションを失って滅びるんです。全ての人間がお釈迦様のように悟ったら、人類は滅びるんですよ。世界を正しく感じることは、出来ないんです。

 感じることはできなくても、考えて、そうだと理解することはできます。そうだと理解した上で、じゃあどうすればいいのか、というのが、知恵ある人類として正しい方向だと思います。世界のバランスをとっている、その力は時々、上下します。あるものが強く広がったら、他のものは押し下げられる。でも、強くなって拡大していくと、滅ぶんです。それはそれで滅ぶ。だって、本当は全体の中の一つでしかないんですから。それだけで、例えば虫だけで、ヤギだけで、人間だけで、生きていけるわけが無いんです。

 繰り返しますけど、でもその一方で、「自分だけで生きていける」というふうに、ヤギも人間も思っているんです。その力が、拡大力であり、バランスを取るんです。人間の拡大力がなければ、自然に押し潰されます。しかし困ったことに、このバランスが崩れてきているんですね。人間の方が強くなってきているわけです。

 人間は、自分だけでやっていけると思うから、遠慮なく拡大する。ライオンやサーベルタイガーに食われている時代には、それでも良かった、バランスが取れていたんですけど。今は、バランスが取れなくなっている。人類皆が悟って滅ぶよりも(それはそれで幸せな感じもするし)、人類の欲を実現できる技術が発達して、拡大しすぎて滅びる方が、可能性は高いと思います。

 森の植物が繋がりあっているように、人間も、繋がりあっている。水や空気がなきゃ生きられないし、そのつながりは森や海にももちろんつながる。別にスピリチュアルな話でもなくて、事実としてそうです。そして一方で、そんなわけないじゃん、人間は人間だよ、他を「利用」しているんだよ、と、人間は感じるようにデザインされている。そう感じることまで含めてのデザインなんです。でも、人間は賢いはずだから、それが本当の世界の見方ではなく、むしろ現代では自分の首をしめていることに気づくだろうと、期待しています。はい。またあした。

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