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データサイエンスより漢文が良いと思う

 一周回って、数値化とかデータが嫌いでして。自分で「一周回って」とか言っちゃうのも気恥ずかしいですが、まぁ、そう思っているんだからしょうがない。なぜ嫌いかというと、一つは、数値というのは世の中を正しく表しているものでは無いからです。ざっくりの数値化でしか無い。使う側がそれを分かっていればいいんですけど、分からないで、数値やデータが絶対だと思っている人も多いと思うので、あんま良くないなぁと思うわけです。

 世の中に「1」とか「3」とか「19」とかは存在しないんです。概念ですから。イデアとしてのリンゴが存在しないのと同じです。ま、デジタルは0・1で出来ていて、人間の視覚入力も電気信号なんだから結局0・1じゃねーか、という話もあるでしょうが。ただ、現実的に0・1の羅列として視覚を把握している人間なんかいませんので、デジタルじゃ無いんですよ。脳がアナログで理解するんですから。で、世の中のことを把握するために、数値化するわけですが、その時点でめちゃめちゃ現実が削ぎ落とされているわけです。

 繰り返すけど、ざっくり把握と分かった上での数値化とかデータなら、ま、いいんじゃない?と思いますよ。あと、これは別の理由として嫌なんですが、いくらデータを持ってきたとはいえ、それは過去のものであり、その延長線上の未来の想定なわけです。やったことない未来に対して、データなんかありませんから、そこには使い難い。小さくテストして、そのデータを持った上で大きな実験へ、という使い方はあるでしょうが。小さな話じゃないですか。問題は、どのような未来像を提示するか、その精度が問題なわけです。

 現状に問題があることなんて、いちいち数字で示されなくたって、何日か町をうろつけば分かるし、それで分からないようなら、そもそも、そんな人は人を率いようなんて思ってはいけない。偉くなってはいけない人です。上がってきた数字を見て、うーん問題だね、と、その態度の方がよっぽど問題だろう、と。じゃあ、その数字の見栄えを良くすることが目的なのか、と。そして数字というのは、最初に言ったように、概念ですから、どうとでもなります。形は整えられるんですよ。悪い人が整えたら、問題の本質だって隠されてしまう。

 こんなことは何十年と続いているわけですし、今、この瞬間から数字をうまく正直に使えるようになるなんて思えないわけでして。だったら、数値やデータよりも、物事を感覚で把握した方がいいんじゃないか、と。で、感覚は人それぞれですし、ズレますから、ひどい感覚を持っている場合もあるわけでして。その感覚が「よっぽど間違っていない」という論拠のためぐらいには、数字は使えばいいんじゃないか、と。そう思うわけです。

 となると、問題は、いかに感覚を磨くかというところでして。そのベースになるのは、経験です。それぞれの経験値の上に、感覚は成り立ちます。ま、生まれ持った感性はあるでしょうが、その上に経験が積み重ねられるわけです。だから昔の指導者は「長老」だったんです。経験があるから。今の指導者が、若い方が良いとかいう話になるのは、経験が意味無いからです。経験が活かせないほど時代が変わっているというよりも、僕は、今の高齢者は、ただ歳を重ねただけであり、経験があるわけではない、という理由の方が大きいと思います。

 経験というのは、ただ生きていれば得られるものではなくて、ちょいとした勇気を持ったチャレンジとか、新しいことをやって、失敗も積み重ねた上でないと、経験になりませんから。となると、そんな人はほぼほぼいないと思うでしょう。実際、僕もそう思います。だから高齢者が軽視される社会になっているんだろうなぁ、と思う。

 ってことで、人間の感覚が鈍感になったんだから、数値とかデータを、行動の理由にするのでしょう。そうしたら失敗したところでしょうがないし、という言い訳になるし。言い訳のためのデータを作るという、まぁ、どうしようもない仕事も生まれるわけで。ってことでね、データとか嫌いなんですが、近年、高校でデータサイエンスとかが一般的になってきて、まじヤベェなと思うわけです。それよりも漢文をしっかりやった方が、良いと思います。感性ですから。はい。またあした。

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