愛が生まれた日
人間の出産適齢年齢というのは、十代半ばから始まって、妊娠出産して授乳期間は妊娠しないとしても、3〜4年ごとぐらいに産めば、生涯で5〜6人は産めるわけです。人によっては10人ぐらい産める。でも、生物というのは数が釣り合うようになっていて、最終的に2になれば、数は増減しない。となると、そもそも人間の初期設定として、6人ぐらい産んで2人ぐらい生き残る、という戦略なのでしょう。子供が大人になる確率は20%とか30%とか、そんなものだと思います。
さて。「愛情」がいつごろ誕生したのか、という話があって。一説によると、近代ヨーロッパにおいて「愛情」が発生した。その理由は、昨日も教育について話しましたが、大学教育というものが出来て、それまでリターンを考えて農家とか継がせていただけの子供に、大学教育を受けさせるというスキームが発生した。大学教育というのは、リターンがあるかもしれないけど、家庭内教育(というか教育の前段階)ほど、はっきりは見えない。なので、子供に対する奉仕、という感覚になる。それが「愛情」という感覚になった、という説があります。
その延長線上に、現代社会の「母の愛」というのも、あるわけです。子供を豊かに育てるほどの資金が無ければ、産むべきではない、という論もそうです。言いたいのは、これらの愛情というのは、人類の初期設定にあるものではなく、文化的に発生したものだということです。そして文化的にも、かなりレアです。初期設定であれば、多産多死ですから、愛情をそこまでかけていられない。もちろん、数千年前の人類だって、子供が死んだら悲しいでしょうが、その悲しみは、今の我々が子供を失った時に抱く悲しみとは全く違う、ということです。
子供を産んだけど可愛いと思えないとか、それは人間的に普通の感覚です。文化的には、普通じゃ無いですけど。言い換えれば、生物としてのホモサピエンス的には普通なんですけど、文化的な現代人としては普通ではない。普通というのは多数派という意味ですが。ただ、人間は文化的な生き物なので、ホモサピエンス的な感覚をそのまま感じることも難しいのです。文化を脱ぎ去るのも難しい。どこまでが文化で、どこまでが生物的なのかは、他文化との比較でしか掘り下げられないと思います。
文化的な生き物だというのは、群れの動物だ、ということです。群れがどのような形態をとっているかわからない状態で、人間は生まれてくるので、群れの行動様式(文化)を受け入れる用意が出来ている。そのベースには、ホモサピエンス的な感覚がありますが、あまりにかけ離れない限り、つまり群れが存続できるならば、どのような形態でも取り得ます。ということで、愛情というのも、その一種の文化的なものだってことです。だから重要じゃ無いとか、そういう話じゃ無いですよ。ただ、愛情は文化だということです。
生物的な設定と、文化的な設定、そのギャップが大きいとストレスが溜まります。僕は毎度「集団(というか自我形成)のサイズ」が、現代社会で最も大きいギャップだと言っています。生物的な設定は100で、現代文化の設定は1(〜4程度)です。そのギャップを埋めるために、色々な社会制度を作っているんですが、その社会制度は生物的設定ともかけ離れていますから、そこを教育などで埋めるしかない。でも、ギャップが大きいと、教育のコストも高い。なので、そろそろ社会制度を作り変えた方が良い、という考えです。
愛情に関しては、集団人数ほど大きなギャップでは無いですが、それでも人によっては、そのギャップで苦しむことがあります。子供を産んだけど愛せないとか、虐待しちゃうとか、子供が不治の病になって死ぬほど悲しいとか、あるでしょう。そういう形で現れます。
人間は文化的なものを当然と、本能的に思ってしまう。本能では無いフォーマットを受け入れる本能を有している、面白い生き物です。文化的なものは、当然なものでは無い。別に、文化が順調で、ギャップが少なければそれで良いんですけれども、ギャップが大きくなってくると、嫌なことが色々と起こってくる。そういう時に、生物的なベースにまで立ち戻ることも、一つの方法だよなと思います。またあした。
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