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我々自身の幸福な家畜化へ向けて

 豚はイノシシを家畜化した動物でして。何千年と(ひょっとしたらそれ以上)かけて、大人しい豚、よく太る豚、子沢山の豚、っていうか家畜化前だから豚じゃなくてイノシシですね、イノシシを選抜していって豚が出来たわけです。家畜とは、人為的に作った環境に適応した生き物です。この定義で言うと、当然、人間も家畜です。社畜とか自虐する前に、既に何万年とかけて、人間は自らを家畜化しているわけです。

 我々はおそらく数万年前の「家畜化されていない(されていても程度が低い)」人間に比べたら、かなり「社会」という人工環境に適応しているんです。満員電車にも「乗れる」し、米や小麦ばかりを食べても体を壊さないし、汚染された空気の中でも生きられるし、田畑でよく働くように出来ているんです。イノシシを家畜化するほど意図的ではなくとも、「社会に適応した人間」が子供を産み、育て、その枠に入れない人間は「社会不適合者」とすることで、何百代とかけて自らを家畜化していくわけです。

 さて、人間の幸福というのを考えたときに、数万年来、遺伝子は進化していないという前提で僕は考えていますが、一方で、家畜化というのは考慮しなければならない問題だと思います。野生を取り戻せ、とかいうんじゃなくて、家畜化された我々は、家畜化された生物としての幸福を追求すべきじゃないか、ということです。例えば「お金」という家畜ツールに、我々は慣れてしまっている、ならばとりあえずお金を使うことも全面的に否定しない方が幸福だよね、という感じ。

 つがえば子供が作れる、というのを「同種」というのであれば、数万年前の人間と現代人は確実に「同種」です。ネアンデルタール人とだって、子供が作れるんですから。ただ、そういう論で言えば、ドーベルマンとチワワは同種です。でも、ドーベルマンとチワワの「飼い方」は違うでしょう。ならば、数万年前の人間と現代人の「適切な飼い方」も違うだろう、ということです。たとえ同種であっても、適切な環境は違うんです。

 自らを家畜化することで、ある程度の、遺伝子変化は起きていると思います。我々は都市や農業や貨幣経済に適応した、遺伝子を持った人間の子孫である確率が高い。例えば「文字を読む」なんていうのは、これは数万年前の人間には必要無い能力ですが、現代人には必須なので、その能力が無い(低い)人は淘汰されていくとか。で、これは国によっても違う、民族によっても違う。そのうち「人類共通の価値観」とかは出来るのかもしれないけど、それが100年とかの短い期間で起きるとも思えない。とりあえず現時点では、多様です。

 さらに、今まで人類は生産性に全振りの家畜化をしてきたんですが。もうちょっと、幸福寄りの家畜化をした方が良い。で、遺伝子がいくら家畜化で変化しているとはいえども、一方で、元々の遺伝子というのは桁違いの、何億年もの歴史があるわけで、だから我々は現代でも、自然に囲まれたらリラックスするし、運動したら調子が良くなるわけです。そして農業も満員電車も、耐えられるけど、そこそこ辛いわけです。これをね、良いバランスでほじくっていき、自らを幸福な家畜化していく作業が必要だろう、ってことです。

 僕が毎度、村だの共同体だの言っているのは、幸福な家畜化に向けて、かなり効率の良い一手が「共同体」だと思っているからです。もちろん、他にも色々とあるんですよ、食事とか、運動とか、環境とか、気温とか湿度とか、どの程度の「自由さ」を持ち合わせるか、とか。どれも、今の社会をマシにはするんだけど、現代社会と遺伝子とのギャップで、最も効率良いのが「共同体」だろう、という考えなのです。だからそれをやっているだけで、共同体が全てを解決するわけでもないと思っている。相当、マシになると思っていますけど。

 話を家畜に戻して。ま、ちょっとメタ視点を持って、この社会は人間を家畜化(繰り返すけど、それを無条件で批判するのは違う)しているし、自分もその一員としてそれを当然と思っている、ただ、その家畜化が目指す生産性とは何のためか。他の方法を取ったって良い。っていうことをね、メタ視点で持つと、ま、多くの人が生きやすくなるだろうということです。またあした。

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