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24時間テレビは『この子らを世の光に』を卒業していました。

『この子らを世の光に』

 障がい者福祉を学びだすと、初っぱな辺りに登場する糸賀一雄の名言です。

この子らを世の光に
『この子らを世の光に』と『この子らに世の光を』の違いについて
「を」と「に」が逆になれば、この子どもたちは哀れみを求めるかわいそうな子どもになってしまいます。しかし、この子らは、みずみずしい生命にあふれ、むしろ回りの私たちに、そして世の人々に、自分の生命のみずみずしさを気づかせてくれるすばらしい人格そのものであります。
この子らこそ「世の光」であり、「世の光」たらしめるべく、私たちは努力しなければなりません。糸賀先生は最後の講義で「この子らを世の光に・・・」の言葉とともに、大きな福祉の思想を私たちに託して逝かれました。

滋賀県HPより

最後の講義は1968年、半世紀前に日本の福祉が目指していた理想は、
『この子らを世の光に』でした。

 24時間テレビ「愛は地球を救う」は、この名言を忠実に実行にしようとして始まった番組ではないでしょうか。

 最初の頃から(もう45年前なんですね)、24時間ビチッとではありませんが、放送日にはチャンネルはそのまま。

ずーっと観てました。

 よく、一緒に泣いていました。
 勇気付けられることもあった気がします。
 少額ですが寄付も。

 毎年、必ず観ていました。

☆☆☆
  
   長女は自閉症を伴う知的障害、まだ幼い頃、ある年の放送でした。

 そのコーナーで映された子は、重い身体障がいを抱え、付きっきりの介護が必要、そのお母さんは交代無しに、寝る間もなく一人で頑張っている内容でした。

「お母さん、息子さんのために一生懸命です…」

 観ていた妻が
「そんなん、アカンやん!」
ボクも同じことを思いました。
「お母さん、もし倒れたら、子供どないするん!」

   今は、眩しいぐらい輝いている『便所の100ワット』。
 でも、電球は一つ、替えのない危うさ、もし輝きが失われた時の、突然の暗闇の恐ろしさ…
 輝き続けてください!の期待は、むしろ冷徹に思えました。

 24時間、障がいのある我が子のためだけに動くお母さんが素晴らしい?

 そんなん、理想って描いてもたら、他の障がいある子の親へのプレッシャー、半端ないやないの。
(アンミカさん風に)

 以来、ボクはすっかり冷めてしまって、我が家の24時間テレビは、嵐が司会の回だけ、嵐ファンの妻が一生懸命に観る番組となってました。
(大阪ローカル入れんでエエねん、と言いながら…)

 近年、24時間テレビを揶揄する言葉で『感動ポルノ』と耳にします。

 かわいそうな障がい者が、一生懸命頑張っている…

それは障がい者本人が、本当にやりたかったこと?
やらせ?  無理矢理、挑戦させられてるんでは?
 
 そんな疑問が、そんな言葉を生んだのかも知れません。

☆☆☆

 昨夏、嵐の二宮さんが司会、久しぶりに24時間テレビをガッツリ観ることができました。
 
 下半身を失った青年の、ダンスをしたい夢に挑戦するコーナーがありました。

  感動的でした。

 車イスでの集団フォーメーションダンスが見事に終了して、二宮さんが車イスの青年に感想を尋ねます。
 青年は、感謝と喜びのコメントで答えました。

たぶん昔の24時間テレビなら、ここで終わっていたでしょう。

 二宮さんは、その後、ダンスに参加した自分たちにとっても、構成したダンスチームにとっても、貴重な体験だったとコメントを続けました。
 それはまるで、その車イスの青年が夢を描いてくれたおかげで、みんなが素晴らしいパフォーマンスにたどり着けた、青年への感謝の言葉でした。

 青年の障がいは、ほんのきっかけに過ぎないと言いたげに。

 こんな『感動ボルノ』なら、大歓迎です。

  久しぶりに観た24時間テレビは、
『この子らを世の光に』を卒業していました。

  しっかり次のフェーズへ進んでいます

(最近覚えた『フェーズ』って使ってみました)

  24時間テレビの製作の方々は『感動ポルノ』の揶揄に悩み、真摯に取り組まれたのではないでしょうか…
知らんけど。
 
 今年の夏の24時間テレビも、王道を行く『感動ボルノ』を期待しています。

 なにわ男子と芦田愛菜ちゃんやで、むっちゃ楽しそうやんか。
(アンミカさん風に)

☆☆☆

長女が、地域の小学校に入り一年生、初めての運動会、徒競走での事。

 ヨーイ、ドン!

練習で、スタートはするものの、途中で座り込んでしまったり、戻ってきたり…
 先生からは、本番の徒競走で50mのゴールまで独りでたどり着けるよう、
『練習してます。あれこれ策を練ってます』
と聞いていました。

 さて本番、娘は案の定、途中からフラフラ歩き出し立ち止まってしまいました。
 先生が、横から一生懸命声をかけています。

  すると、一緒にスタートして早々にゴールしたクラスメート達が娘のところまで戻ってきて、娘の回りで跳び跳ねながら応援しはじめました。

上級生や観客からも「がんばれー」

運動場全体が一つになって、応援してくれています。

 娘は、ニコニコしながら、またフラフラ歩き出し、機嫌良さげにゴールテープにたどり着きました。

  大事なのは、本人のニコニコ顔。
 決して、無理やりのゴール、泣きながらでなかったこと。

 娘はしっかり輝いていました。

 主役は娘だったかもしれませんが、どうしたら娘が独りでゴールできるか?あれこれ考えて、一生懸命ガンバってくれたのは、支援学級の先生、担任の先生とクラスの子達、運動場で応援してくれた観客の方々。

 運動場全体も輝いていました。

   娘がただ、ふわふわと50m進んだだけのパフォーマンス、今思い出しても涙が出そうな『感動ボルノ』です。

  WBC、ワールドカップ、オリンピック、M-1、プレバト…大好きです。
  人が、何かの目標に向けガンバってる姿、とても『感動』させられます。

 ボクみたいな単純な年寄りに『感動』は良いクスリです、 いっぱい元気をもらえます。

☆☆☆

ソーシャルインクルージョン、ダイバーシティ、インクルーシブ教育と、
  言葉だけ、ずんずんと先行していますが、現実は理想に程遠いようです。

 『合理的配慮』のつもりで、放ったらかしにされがちな『本人の意思』。
 日本の申請主義が、障がい者のスティグマに輪をかけ、本人を黙らせてしまいます。
『本人の意思』を確認しない『合理的配慮』は、支援者の独りよがりにすぎないかもしれません。

 この子らを世の光に。って、 いつも光ってなくたっていいでしょう。
光りたくない子だっているはず。

   でも、本人が輝きたいと希望を持ったら、いつでも動き出せるように。
  動き出したら、その時こそ前に進めるよう、当たり前に足元を照らしてあげる。
  歩きだしたなら、転ばないよう見守ってあげる。
一緒に歩いて、一緒に輝く。
 王道を行く『感動ポルノ』だと思います。

 
  誰が、どんな障がい者?
と探し回って、で、どう光らせる?より、どうせ探し回るなら、
誰が、どう輝きたがっている?
 感動を呼ぶ「光」は、こっちの方です。 

 半世紀前の『この子らを世の光に』
から、 日本の福祉を次のフェーズへ。
 
先ずは、誰もが希望が持てるよう、当たり前の『世の光』を。

  別枠で囲ったり、閉じ込めたり、カーテン引いて遮ったり、カギなんてかけたらアカン、光ってへんからって真っ暗にせんといて。

今、ホンマに大切なんは

『この子らに世の光を』

やねんから。

(アンミカさん風に)




 

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