生きているから生きるんだ

人生に倦んだ。
などと気楽に言える程度には恵まれた、もしくはぼんやりとした暮らしなんだと思う。思うようにしている。
そんなことを考える余裕が、自分にはあるのだ、と。
食うや食わずで生を勝ち取らねばならない状況であれば、生存本能にしたがってひたすら生きるしかない。そこには、人生の何たるかを考える余裕は、もっと言えば必要がない。生きるために生きるのだ。
食うや食わずでなくとも、確固たる目標がある場合もそうだろう。はるかな高みに手を伸ばすためには、生は目的地ではなくて手段だ。かの闘志の使徒・ヒュンケルは己の生すら仲間のため平和のために武器としてグランドクルスを放ったが、つまりはそういうことだ。
目標はない。単位を一日ごとに落とせば生きていられる。十年後二十年後にどうなっているかは分かったものではないが、どうなっていたいというイメージも無いので、不安はあるが大した問題でも無いように思う。
働き続ければ生きて行けるだろうが、年齢か健康か、どちらかの理由で食い扶持を失えばそれまでだ。そこが自分の寿命なのだろう。肉体的な健康寿命ではなく社会的な寿命。
生きていくに値しない存在だと、自然界ではなく人間の作った社会によって定められる。
死ぬのは怖い。夜中に飛び起きて眠れなくなることがあるくらいに怖い。最強の未知が、漠然とした姿で迫ってくる。こうして書くことすら怖しい。何よりも触れてはいけない禁忌だ。
44にもなって、まるで子供のように怯えてしまう。それもこれも、何も分からないからだ。身の回りに亡くなった人はいても、死んだことのある人はいない。それまでだからだ。

『異国日記』の朝のように、生きてるんだから!と叫ぶことができればいいのどが、それほど生に対して積極的にもなれない。決して厭世を気取っているわけではなく、つまらない期待をして裏切られることを繰り返してしまうと、臆病になってしまう、ただそれだけだ。はすに構えていれば、何かあった時にも受け流すことができる。もっとも、そんな姿勢で生きているから何も起こらない、起こせないのだが。
朝が来て目が覚める。目が覚めたから今日を始める。
生きているから、生きる。
レールを外れる度胸もないから、わずかな給料のために(ほんとうにわずかなのだ。そのうち書くと思う)、仕事をする。
やり甲斐は探せばあると思うが、あまりモチベーションにはならない。とりあえず職場に行って息を詰めて目を閉じて定時まで我慢することを繰り返せば、どうにか命をつなぐことができる。ただそれだけだ。
もちろん楽しくはない。楽しく働きたいとも思っていない。一方で深刻な苦痛やストレスもない。ないことにできている。そういうものがないから対価が少ないことも納得させることができている。

そういう風に生きている。
倦んでいるからそうなのか、そうだから倦んでいるのか、どちらが先かなんて知らない。
ただ、生きているから生きている。それは間違いない。

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