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「土屋は嫌いだ」と言われる方がまだマシだと思った話

議員になって、湯河原町の政治の問題点は結局どこなのか、というのを深く深く考えて、出した結論が、何がなんでも町民に政治への関心を持ってもらう事である、というところだった。

ド正面から不正には斬り込んだし、税金の無駄遣いも、忖度なしに正面から直球で改善を求めた。

その態度が人には、血も涙もないと思われたかもしれないし、赤裸々に議会の中身や町政の裏事情(?)をお伝えする事が摩擦を生んだ事も確かだと思う。

だけど、それは湯河原町が良くなっていく為に必ず通らなければならない道筋であり、そこを無くしては風通しの良い、透明な政治は実現はできないのは理解いただけると思っている。

それによって沢山の敵も作ったし、辞めたくなるほど嫌な思いもした。だけど、私がやってきた事は間違いではないと思っている。

政治家が嘘を語らない事。何か絵空事の様な耳触りの良いことだけ言わないこと。常に市民と同じ目線であること。を意識しながら情報発信をしてきた。

嬉しいことに沢山の方が「土屋さんが議員になったことで政治に興味を持った」という声をいただいた。

自分で言うのもなんだけど、ある程度は私が目指しているところには近づけているのかなと思った。

しかし、だ。

今回の政策トークへのご参加を呼びかけていると、本当に、全くもって、政治への無関心どころか、政治不信の方にお会いする事があった。

土屋由希子です、と言って、「土屋?嫌いだよ!」なんて方はお会いして話せば誤解が解ける事は沢山あるのだが、政治不信の方は話も聞いてくれない。そもそも選挙なんか絶対行かない!という姿勢。

これには本当に悲しくなって、今日は涙が出てきてしまった。話しかけても全く耳を傾けず、再度「ちょっとだけでもお話を聞かせてください」と言っても無視をされ、シャットアウト。

人と人として話せば誰しも分かり合えると信じているけれど、政治の話と勘づくと、あからさまに嫌な顔をされてしまう。

政治の敗北。そんな想いだ。

政治を諦められたらおしまいだ。

「嫌い」というのはまだ関心がある証拠。
「愛」の反対語は「無私」である、と高校の時にとある先生が言っていた。

「無視」ではないく「無私」
そこに「私」が無い、という事。

現代社会で人が生きるその中に「政治」という「私」がなければ、救えるものも救えない、関心をもってもらえなければ、政治の存在すらなきものになってしまうのである。

私は声高らかに叫ぶ。「政治」に関心を!

それは、ひとりひとりの町民の「生きる」という一部である。

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