見出し画像

【復刻】何が復興だ〜もうひとつの「ただいま、つなかん」③

今から6年前の3月、春のお彼岸。朝の日差しはすっかり春めいているのに、海から吹く風は強く冷たく体を突き抜けます。

まるオフィスというNPO(非営利型の一般社団法人)を立ち上げて丸2年が経とうとしていましたが、私は相変わらず迷走していました。それでも「唐桑半島の復興まちづくりのため」に動いていると信じることで、心を保っていたんだと思います。

半島の崎の方にある大山(だいやま)商店という空き店舗をお借りして事務所にしていました。午前、電話がかかってきたのでケータイ片手にふらっと外に出ます。この高台から磯の沢という小さな集落に向けて緑の野原がなだらかに傾斜していくのが一望できます。

「盛屋さんの船が?」
転覆した、と。当時の私はその意味が全く分かっていませんでした。「どういうこと?やっさんは大丈夫なんでしょう?」

その数時間後。唐桑半島の馬場に移動した私は、漁師の友だちのやっくんからの電話でようやく状況を理解します。風は強さを増していました。

2017年、海のまちで勢いまかせにNPOを起業した男(28歳)が、自身にとって永遠に海の意味を変えてしまった事件について記事を書いていました。


2017年4月5日~6周年の備忘録 [2017年04月04日(火)]

(なにが復興だ)

馬場の浜を睨みつけた。船が何艘も巨釜沖に見える。
「なにやってんだがなぁ!」
電話の向こうで笑いながら泣いている。
「ぜってぇ見つけてやっからな。な!ぜってぇ見つけっからな。な!」
漁師のやっくんの決意と悲壮に満ちた声を電話越しに聞いて初めてボロボロ涙が出てきた。
まだ春は遠い、斜めの陽が射す昼前のこと。

陽が沈むころ、藤浜に揚がった難破船を囲む人だかりの中で、まもなく2歳になる心波(しんば)はお母さんに抱かれてとても上機嫌で、その笑顔が胸を癒しながら胸を締め付けた。

6年間唐桑にいた。
この4月5日を迎えると丸々6年になる。

震災があって私は唐桑に引き寄せられた訳だが、
私は今回初めて「海が憎い」と感じた。

あまりに大きな悲しみが襲ってきて、私は目をそらした。
曇った海の上に、大きな怪物が立っていた。
まずはえまやさちをはじめ仲間を守ることに決めた。私たちはいずれ必ず一代さんたちの力になるときが来ると思ったから。だから、それまでに自分たちが潰れてしまっては元も子もない。
が、実は仲間を想う自分に自分を酔わしめて、怪物から目をそむけていた。

同時に年度末の仕事の多忙さが自分を救ってくれた。家に帰ってからは何も知らない息子をあやす時間に救われた。

数日後、親分に乗せてもらって半日海の捜索にも出たが、まるで夢の続き。
見つけたい気持ちと見つけたくない気持ちがずっと巡って、飛び回る鳥に目を預けて「海は広いな大きいな」と口ずさむ。だって、水平線が丸い。唐桑半島から金華山までも丸い。

海が憎いと初めて感じました。
「そう言うな」
酔った地元のあるおんちゃんが言う。
「これが海のまちなんだ」
このおんちゃんが涙を流したのはこの6年初めて見た。

「親父を海で亡くした友だちは、ざらにいたさ」
ある地元の先生が語る。

「豊かさを享受するとはこういうことなんだ」

「なぁ。海は、海で、海なんだ」

なんなんだこの人たちの達観は。
一見、他人事。でも他人事だから言えるんじゃない、自分事だからこそ出る自然への尊敬と挫折と諦観。

今回、私はこの漁師まちの真髄を見ました。
豊かさの陰に隠れた悲しみが鎖のようにつながっていました。

それが歴史でした。海にまつわる伝統芸能はじめみんなそうでした。

今日、事故後初めて一代さんに会いました。
私は今回教わったこの「豊かさ」を次の世代に伝えていく決意を、
泥のようになった心情の中に手を突っ込んで掴み出そうとしています。

---

3月23日朝、唐桑沖で海難事故がありました。
盛屋さんという私たちが震災以降ずっとお世話になってきた家です。
今「唐桑御殿つなかん」の今後をみんなで考えていこうとしています。

この記事もひとつの役割と信じて、備忘録として。


加藤拓馬のブログ「遠東記」より
https://blog.canpan.info/entoki/archive/270

映画『ただいま、つなかん』公式サイト
https://tuna-kan.com/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?