言語と音楽

英語だと「I love you」

日本語だと「わたしはあなたを愛している」

同じ意味を伝えるにも圧倒的に英語はコンパクト。

というより、日本語の文字数の多さ、と言ったほうがいいのだろうか。

これが歌になると、「I love you」であれば、わずか3音で乗っかるが、日本語だと、・・・・・・という具合だ。

そんなことを考えると、「I」は<わたし>だったり<僕>だったり<アタイ>だったり、<俺>だったり、<あたくし>だったり、、そんなニュアンス全てひっくるめて、一人称、自分のことは「I」なのだから、幅が広く創造的ともとれるし、逆に限定した表現がしにくくてモザイク的な感じだなー、とも思った。

そして、それは音楽の和音で言えば、コードみたいだな、と。

ドミソもミソドもオープンボイシングのドソミも「C」で表すことできる。

「俺はあなたを愛している」というのと「わたしが君を愛している」というのはどちらも「I love you」のコードで表現できる。もちろん英語でもjustなのかonlyなのか、何か付けてニュアンスの表現はあるだろうけど。

それに対して日本語って玉譜(書き譜)みたいだな、と。

「君のことを好きなんだ」よりも「君のことが好きなんだ」って言いたい。「雪が降る、あなたは来ない」よりも「雪は降る、あなたは来ない」の方がやっぱり情緒がある。

ドミソでも間違いじゃないんだけど、やっぱりドソミで鳴らしたいなってときは、玉譜にすると、そのまま伝わる。

そういう意味では、非常に限定的にはなるけど、意図したものが正確に伝わりやすい。

コードの場合は多少音を抜いたとしても、シとファがあれば、とりあえずG7ってことに暫定的にくくってみたり、逆に言えばD♭7でもいいわけで、いろんな解釈をしてもいいし、またCと書かれていても、レの音入れてみても良かったり、コードネームというモザイクから演奏者の意図や意思を自由に(ある程度のルールの中で)広げることができて、とても創造的。「I love you」も

<あたしゃお前さんが好きでたまらん>

でもいいわけだ。

それってジャズだな、と思ったりもします。

クラシックのピアノの楽譜は、とても厳格な和声や形式などのマナー(?)の中で作者の言葉を正確に表現しているゆえ、無数に並べられた音符の1音1音の持つ意味は重い、ゆえに勝手に書き換えることはご法度でもある。

それを日本語的と感じるのはそれがわたしの母国語だから、というのは否めないけれど、それを差し引いたとしても、日本語のもつ表現力、細部にわたって表現しようとする語彙の多さは、英語に比べると非常に繊細で玉譜的だと思う。

話はそれるけど、数年前ショパンのエチュードを練習していたことがあって、普段はコードネームを使った演奏が多いので、なかなか譜読みが大変だった。そこで読みやすいようにコードネームを書こうかとも思ったのだけれど、なぜか、なぜだか、ショパンの譜面にコードネームを付けることに躊躇いがあり、結局コードは書かずに一生懸命白黒の鍵盤と向き合って頑張ってみた。その時はなぜコードを書くことに抵抗があったのかがわからなかったのだけど、今こういう内容の記事を書いていて、なるほどな、と自分の行動にも納得がいったわけです。

私は日本語がとても好きで、日本人の誇りってひょっとしたらこの言語なのでは?と思ったりもします。

といっても、英語の力強さや輪郭のはっきりした感じも好きではある。

直接的にシンプルに「I love you」と集約されたその言葉から、イメージをクリエイトする言語。

多くの語彙の中から「雪は降る、あなたは来ない」とチョイスされた言葉の真意を探し拾う(忖度?)する言語。

国民性や思考の仕方と関係があるような感じがしますね。

ちなみに、ショパンのエチュードは半分までいって、完成に至らずのままはあります、、、、


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