3月11日に

福島県の四倉という小さな港町で幼稚園から小学1年までをすごしました。物心ついたころには潮風に吹かれるハナタレ小僧だったわけです。1960年代の半ばから後半のことですが、いまでもときどき記憶の断片のようなものが浮かんできます。
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住んでいた社宅の壁に薪が積み上げられていたのは覚えているが、それで焚いたお風呂が五右衛門風呂だったのを覚えていないこと。
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畳替えにやってきた職人さんが、ヤカンの注ぎ口から水を口いっぱいに頬張っては勢い良く「ぷう」と霧を吹く。太い針を突き刺し肘を使ってぐいぐい引き上げる。あまりの格好良さに大きくなったら畳屋さんになりたいと思っていたこと。
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路の向かいには「所長さん」が住んでおり、当時まだ珍しいマイカーをもっていた。日曜日に磨いているところをしげしげと眺めていたら、町内一周のドライブに連れて行ってくれたこと。
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弟と道ばたで遊んでいると、風船をいっぱいもったおじさんが現れてひとつずつくれるという。ぼうやのお家はどこかな。問われるままに連れて帰ったがおじさんは乳酸菌飲料のセールスマン。母親が断りきれずに半年とることになりあとできつく注意されたのだが、注意の意味がわからず悲しい気持ちで天井を漂う風船を見つめていたこと。
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遊び場になっている原っぱのむこうを蒸気機関車に引かれた貨物列車が通ってゆく。イチ、ニ、サンと貨車の数を数えていちばん多いときはゴジュウニだったこと。相馬方面へむかう下りのディーゼル特急「はつかり」がやってきたら家に帰る時間だったこと。
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父親の勤める鉱山会社に家族で出かけた(床屋か医者か)が帰りのバスの便が悪い。会社のジープで送ってくれることになり皆が乗り込んだところで、バス停で待ち続ける行商のおばあさんが気の毒だから乗せよと母親が主張する。渋い顔の父親を尻目に招き入れた大きな風呂敷包みのおばあさんはしきりに礼を言っているらしいが、その言葉が全然わからなかったこと。
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働くお父さんの絵を描きましょう、のお題に黄色いクレヨンをたくさん使ってクレーン車やショベルカーを描き家へもって帰ったら、お父さんはケイリの仕事をしているんだ、穴を掘ったりはしていないんだよ、とクレームがついたこと。でも机に向かってソロバンをはじくより、大きな乗り物を動かすほうがよっぽど魅力的に思えたこと。
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国道はトラックやダンプがひっきりなしに走っているから怖くて一人では渡れなかった。あるとき母親に手を引かれてその国道を渡り、港に見物に行ったこと。船団を組んだ漁船が色とりどりの大漁旗を翻しながら威張ったような姿勢で港に入ってくる。女子供や老人がにぎやかに出迎える光景はお祭りのようで、それを少し離れた場所から二人で眺めていたこと。
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月に一度、日曜日に平(現在はいわき)のデパートまで出かけたこと。見栄っ張りの父親が出かけるときはタクシーを呼ぶのに、帰りは四倉の駅から歩きだったこと。駅前で買ったアイスクリームの棒に3回続けて「あたり」が出て、行きつ戻りつしながらみんなではしゃいだこと。
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1枚だけ残っている写真には、遊びともだちとその母親たちがススキの原っぱに立っておさまっている。貧しい身なりに母親は前掛け、男の子の一人などは露骨につぎはぎだらけの服を着せられている。みな少し寒そうにしていて、それでいてそろって屈託のない笑顔を、われわれはもう取り戻せないこと。
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いままでは酒を飲んだ折などに脈絡なく思い出していたことを、これからは生きている限りこの日に思い出し、そして映画「ブレードランナー」のレプリカントの最後のセリフ「雨の中の涙のように その記憶も消えて行く」のでしょう。

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