見出し画像

「まず隗(かい)よりはじめよ」娘の言語教育について色々考えたこと

 上海生まれの娘が、1歳6ヶ月になった。無事にすくすくと成長してくれていて、彼女が生まれてからうちの家が明るくなった気がする。

 うちの息子達は朝目を覚ましてすぐに喧嘩し始め、夜寝るまで喧嘩と仲直りを繰り返しており、毎日行き過ぎた彼らをど突く羽目になっている。

 そんな中で、女の子という娘の存在は、兄二人の存在にとっても特別なもののようで、よく可愛がってくれるし、面倒も見てくれていて親として非常に助かっている。特に妻は大分楽になっていると思う。

 目下たまに悩むのが、娘の言語問題である。1歳半の娘は既に中国語優位の環境で育っているので、基本中国語での理解と喋りが主体となってきている。

 基本、私は日本語(というか関西弁)で極力喋りかけるようにして、絵本も日本語の絵本を読み聞かせるようにしている。それでも、中国語優位な娘は私からの喋りかけに全て中国語で返してくるため、それにつられてついつい私も中国語で喋ってしまうことがある。はっと、なって日本語に切り替えるようにしているのだが、これはこれでなかなか骨が折れるというか根気のいることだなと改めて思った次第である。

 昨日、息子二人が中国語で娘と喋っていると、妻から雷が落とされた。
「お前らが中国語喋ったら、妹は余計日本語できなくなるでしょ!妹とは日本語喋りなさい!!」
きょとんとした息子達に、「明白了没有??」(分かった??)と追い打ちをかける妻。「み、みんばいら」と恐れおののく息子達。

 息子達も私と同じように、日本語で喋りかけたら中国語で返ってくる娘に対して、反射的に中国語で喋ってしまうという経験を積み重ねてしまっており、それを見かねた妻が釘をさしたのである。彼らもその「難しさ」を身に染みて体験しているのだ。

 そんな中、私の妻は娘を日中英のトリリンガルにしたいとか言い出したので、今度は私から雷を落とされた。

「欧米人は小さい頃から何カ国語に触れて喋れるようになっている」

とかほざくので、私は思わず「あほか」と彼女を諭した。

 欧米人の多くが、多言語環境にあるのは国情が違うからである。小さい頃から多言語を喋る環境にいて(公用語が数種類ある国もざらにある)、育っていくうちに覚えていくのである。我々は中国で生活しているので、外では中国語か上海語、家では中国語と日本語のみに触れるだけである。英語に触れさせたところで、英語の学習を辞めた時点ですぐに忘れてしまうのである。それよりも、親の母語である中国語と日本語をしっかりものにできるような教育を施すべきである、と。

 この点を、長男を例にして妻に話をした。長男は幼稚園児の時、幼稚園で週5でネイティブの英語授業を受けていた。数か月でネイティブみたいな綺麗な発音になり、私は息子に英語力で抜かれたかもとびびったものだが、小学校に入り英語教育が週一、週二になった途端、彼はそれまでの英語力の蓄積が一気に失われてしまったのである。もったいないものだ。

 言語というものは結局は良好な言語環境がものを言う。とある言語を勉強したとしても日常的に喋る機会がなければすぐにでも忘れてしまう。所詮そんなものなのである。

 子供に英語を勉強させてやりたいと思うのであれば、「まずよりはじめよ」である。妻が英語を勉強しているその姿を娘に示さなければならない。自分は何もやらないくせに、子供にあれやれこれやれと押し付けるのは自分勝手も甚だしいと思っている。中国人の親達を見ていて本当に理解しがたいのはこの点である。この件で妻に滔々と話をしたが、彼女は少しふてくされてしまった。まあ、いずれ分かる時が来るだろう。

 長男の例で言えば、言語の話ではないが、日頃家で時間があると本を読んでいる私の姿を見て、自分で勝手に私の本棚から本を取って読み始めた。ここ数カ月ですでに東野圭吾の本を半分ほど読んでしまった(本当に読んで理解してるのかは知らない)。よくよく振り返れば私もそうだった。小学生の頃から親父の本棚に並んでいる本を手に取って読み始めた。あの時は司馬遼太郎の本に夢中になったのを覚えている。

 下手でもなんでも、親が子供に勉強している姿、何かに楽しく取り組んでいく姿を見せることは親として非常に大事だと思っている。


今日はここまで、ほなさいなら。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?