見出し画像

凜とウェイバーが出会う話-At the Summer School

※『Fate/Zero』二次創作です
※『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』『ロード・エルメロイⅡ世の冒険』ともに未読です
※『FGO』は未プレイです
※ライネスは男の子で、名前は同じだけど別人です
※登場するメインキャラクターは凜とウェイバーです イスカンダルはいますが、特殊な書き方になっています
※時計塔の描写は『Fate/Zero』の説明から逆算できるものにしています

同じシリーズの前の話↓


     At the summer-school


 遠坂とおさか家の魔術師にとって、聖杯戦争は宿業である。
 現在、最高峰と呼べる魔術装置・聖杯。それを作った『始まりの御三家』に名を連ねる家門として、常に聖杯戦争に参戦してきた。そして、そのたび多大な犠牲も払ってきた。第四次聖杯戦争も例外ではなく、頭首・遠坂時臣ときおみは死亡。遺児、長女・凜は幼いにもかかわらず家を背負って立つこととなった。
 時臣の弟子であった言峰ことみね綺礼きれいが後見人を務めているものの、凜はあまり信用できない。
 お父さまを守ると約束したのに、守ってくれなかった。お父さまも約束も。
「あのね、お母さん、お話があるの」
 凜は毎日のように病院に通う。母がそこにいるからだ。
「私ね、明日から半月ほどイギリスに留学するの」
 凜の母、葵は聖杯戦争の最中、中立地帯であった冬木教会で時臣と共に倒れているところを発見された。父はすでに事切れていたが、母はかろうじて生命を取り留めた。だが首を絞められたことによる低酸素状態から脳機能に障害を起こし、通常の会話はできなくなり、身体も不自由になった。犯人は不明だ。
 車椅子の葵は一人の世界を見つめている。
「まあまあ桜、いけませんよ。遅れてしまうわ」
「だからね、明日からしばらく、ここに来られなくなってしまうの」
「まあ、凜」
「!」
 葵が痩せた手を空中に伸ばす。
「ほら、お父さまがお出かけになるわ。お見送りしなくていいの」
 あの日から、お母さんはお母さんではなくなった。
 私が知ってたお母さんは、もういないの。
 分かっているのに。一瞬、期待してしまう。
「ね、凜」
 葵はあらぬ方を見て、思い出の中の凜に話しかけているだけなのだ。
 それでも。
「お母さん」
 単に会話がかみあっただけ。分かっているのに、一瞬でもいい。お母さんが戻ったんじゃないかって。思ってしまうの。
「私、必ず帰って来るから。待っててね」
 自分を見ない母親の手を握って、凜はぎゅっと目を閉じる。
 自分が遠坂を背負っていかなければならないのだ。母も家門も全て。
 凜には妹がいた。しかし聖杯戦争の前に父が同じ『始まりの御三家』の一つ、間桐まとうに養子に出した。以来、一度も会えていない。最初からいなかったのだと思いなさい──それは父の遺言の一つになった。
 だから私は、桜に会いに行かないの。
 私が伝えなければ、桜はお父さまのこともお母さんのことも知らなくて済む。
 私はお父さまの娘として恥ずかしくない努力を重ねなければ。そのためにも時計塔に行かなければ。お父さまもおじいさまも通われた場所なのだから。


 凜は一路、機上の人となった。
 魔術協会本部に併設される魔術師たちの最高学府、時計塔はロンドン郊外に存在する。美しいバロック様式の建物で、近隣の人には私立一貫校インディペンデント・スクールだと思われている。実際に、内部には研究機関に直結する形で教育機関も置かれており、さまざまな国から子供たちが集う。
 英国私立校の例に漏れず、時計塔にもサマースクールがあり、長期間、子供を預けるのに不安のある家などがお試し入学として利用する。この期間、子供たちは夏休みに指定されているが、必ずしも全てが帰郷するわけではなく、サマースクールに参加した子供たちは普段と変わらぬ授業を体験できるのだ。
 凜が時計塔に行くのは初めてではない。
 父の刻印を継承する際に、綺礼に連れられて訪れた。
 今回、綺礼がどうしても抜けられない教会の仕事があるということで、手筈だけを彼が調え、凜には同行しなかった。
「せいせいするわ。あんな奴」
 凜は航空機の窓に額を寄せてため息をつく。
 ロンドンに着いた後も迷うことなく時計塔に到着し、凜は我ながら大したことをやってのけた気分になった。
 受付で綺礼に渡された書類一式を提出した。
「はい、サマースクールへの御参加ですね。リン・トオサカさん」
 事務手続が終わると、凜は女子寮に併設された特別寮に案内された。
 サマースクールに参加する生徒たちが集められる建物だそうだ。そこにはボランティアの生徒たちが待っていて、学内を案内したり、授業の説明をしてくれる。
 凜にも案内役の女子生徒が紹介された。
「初めまして。私は寮長生プリフェクトのオリヴィー・マクドネル。一番年上ってだけなんだけどね」
 大学生くらいの優しそうな女性だった。凜から見ると、完全に大人のお姉さんだ。茶色い髪に青い瞳。凜にとっては外国人という感じがした。
 緊張はしたが、凜は元来、社交的で明るい性格だ。迷わず握手した。
「初めまして。遠坂凜といいます」
「聞いてるわ。『魔法使いの弟子』遠坂家のお嬢さんと話せて光栄だわ」
 オリヴィーは学内をひと通り案内し、寮の規則などを説明した。
「朝食は七時から。明日は私が迎えに来ます。準備しておいてね」
「はい。分かりました」
 翌朝、凜はきちんと早起きし、身支度を調えた。歳のわりに長い髪をきちんと二つに分けて、頭の上で結う。ゴムは黒にしておいた。どのような服がいいか分からなかったので日本の学校の制服をそのまま着た。
「おはようございます」
 現れた凜にオリヴィーがぱっと笑顔になった。
「可愛いね、その服」
「学校の制服です。日本では制服のある学校が多いので」
「へえ、気楽でいいわね。男子はテイルコートかモーニングが普通なんだけど、女子に規則はないの。でも派手な格好はしないわね。地味なドレスとかワンピースが多いかな。凜ちゃんのその服はとってもいいな」
「ありがとうございます」
 久し振りに賞められた。
 凜は懐かしい気がした。父が生きていた頃は、凜が頑張ると必ず賞めてくれたものだった。結果が出なくても叱られたりしなかった。悪いところを教えて、いつも手本を見せてくれたものだ。
 私もちゃんとしよう。
 凜はいつも父を思い出すだけで襟を正すことができた。
 時計塔の食堂は教会のようだった。バロック様式のホールに細長い大きなテーブルが並び、生徒たちは散々五々に座っている。
「特にルールはないけど、なんとなく男子と女子は別れて座るかな。何かあるといけないから、一人で男子と座っちゃ駄目よ」
「はい」
 オリヴィーは朝食の注文の仕方を教えてくれた。
 時間が進むにつれて食堂には人が増えた。奥の方に年上の男子生徒が集まっている。
 そこに凜から見ると、ビルのように背高のっぽの男性が現れた。真っ白な髪を撫でつけるようにまとめて、明るい灰色のモーニングを着ている。離れているので分かりにくいが、目も白いように見えた。
「リフ、こっち」
 人混みの向こうで誰かが手を上げると、彼はすうっとそっちに行った。
 友達がいるんだ。じゃ、サマースクールの人じゃないのね。
「トリフォン、背が高いわよねえ」
「あの人ですか」
「そう。時計塔の中でもミアと並んで目立つ一人だわ」
「ミアって?」
「女子寮で人気のある子よ。ものすっごく可愛いの。おまけにトリエスのメンバーだしね」
 オリヴィーの笑顔に薄く複雑な感情が浮かぶ。凜は目聡く気がついた。父が亡くなってから、人の顔色を読まずに生活することはできなくなった。そもそも綺礼からして信用ならないのだから。
「トリエスって何ですか」
「ああ、研究生スカラーが組むトップチームよ。Squad of Solomon’s Scholar.  SSSでトリエスってわけ。このあいだ強制証文ギアス破りの魔術師を狩り出してお手柄を上げたばかりよ」
 凜は目を丸くするしかなかった。ここは学校●●なのではなかったか。
 オリヴィーが肩を落として、ため息をつく。
「本当に優秀なんだけど、ミアは朝がダメなのよねー」
「ふうん」
 私だったら遅刻はしないわ。お父さまに胸を張れなくなってしまうもの。
 凜は独りごちる。
 授業はどれも基礎的なもので、凜はひと通りこなすことができた。いきなり実技で当てられたときは緊張したが、無事に使い魔を飛ばすことができて、ほっとした。
 夕食後の自由時間にオリヴィーがサロンを案内してくれた。
「ここは食堂と授業以外で唯一、男子と会えるところ。毎日わいわいしてるから、ここに来れば友達が作れると思うわ」
「そうします」
 中はちょっと不思議な空間だった。ホテルのラウンジのように広いが、椅子やテーブルが細かな間仕切りパネリングの間に配置されて、連結している。別の空間に行くには間仕切りの中を通らなければならなかったりするので、自然に会話が発生するようになっているのだ。
 その一角に、あの白い長身の男性がいた。よく見ると、学生というより大人だ。
 そして、彼の前にびっくりするほど美しい少女が座っていた。
 鮮やかな金髪碧眼が凜には眩い。小さな顔立ちは目を奪うほど華やかで、映画の子役みたいだ。歳は凜より少し上に見えるが、あまりにも美しいのでよく分からないほど。おまけに彼女は白い男性に通る声で言いつけていた。
「ほら、もっと細くして」
 二人は危険のない小さな炎を手に灯して、何か練習しているようだった。
 目が離せない凜に気づいて、オリヴィーが言った。
「分かる? あの子が朝に言ったミアよ。話してみる?」
「あ、はい」
「ミア、リフ」
 オリヴィーが声をかけると、二人が初めてこちらを向いた。そのときリフの瞳が澄んだ灰色だと分かった。影になると、くっきりと色が浮かぶ。
「サマースクールで日本から来た子なの。遠坂凜。ちょっと話してあげてくれないかしら」
「いいわよ。ここに来なさいよ」
 ミアが気軽に手招きする。リフも穏やかに頷いている。
 凜が二人のいる間仕切りの中に入ると、ミアが吸いこまれそうに青い瞳で見上げた。
「一緒にやる? 火の魔術は使える?」
「ええ」
「じゃ、いくよ」
 ミアが掌に糸のように細い炎を立ちのぼらせる。凜は目を見張った。それは簡単そうに見えて、かなり難しいことだった。魔力のコントロールが完璧でないと炎の幅を維持できない。ミアがたゆまぬ鍛練を積んできた──自分とそう変わらないのに──ことに気づいて、凜ははっとした。
「まずリフ、やってみて」
「うーんと」
 白い男性、リフが手を開くと立ちのぼる炎が現れたが、ミアのように細くできない。それなりに細い火にはなっているが、削りきれないという感じだ。
「あんた、回路の出力が高いんだから、絞る練習しないと、こっから先に行けないわよ」
 ミアが黒いドレスの腕を組む。彼女はにこっと凜を見つめた。ドキッとするほど可愛い笑顔だ。
「貴方は? やってみて」
「ええと」
 凜も手を出し、そうっと炎を灯す。いっぱい集中して細く。お父さまに言われたように、まず自分の魔力をきちんと意識して。
 凜の炎はリフより細く立ちのぼった。
「上手いじゃない」
 ミアが拍手してくれる。凜は少し気恥ずかしくなった。
「貴方みたいに細くできない」
「あたしは特別だから」
 ミアが自信たっぷりに微笑んだ。
 凜はなんとはなしに自分がそんな感情を忘れていたことに気づいた。父がいた頃のように、毎日、基礎練習を繰り返す暇もなくなっていた。病院から帰って、いくつもある習い事。家事も自分でしなければならない。すぐに明日の準備をして寝る時間がくる。買いものも病院や様々な手続も全て凜の肩にかかっているのだ。
 私、ちゃんとした魔術師になれるのかな。
 そこにミドルティーンの少年が駆けこんできた。
「ミア、リフ」
 凜が顔を上げると、これまた整った容貌の少年だった。映画で見る俳優のように思えた。彫りの深い顔、真っ白な艶のない肌、ミアによく似た鮮やかな金髪と深い琥珀色の瞳。しっかりした肩が日本人とは違う。おまけにリフより低いものの、見上げるほど背が高い。凜には目の前に壁ができたように思えるほどだ。
 彼は切迫したような声をあげた。
先生マイスターが戻られた」
「ホント!? お兄ちゃん」
「ああ、よかった……」
 ミアが飛び上がるように立ち上がり、リフは心臓でも悪いかのように胸を押さえていた。ミアがすぐに凜を覗きこんだ。
「ごめんね、あたしたち、先生のお見舞いに行きたいから」
「分かりました。どうぞ」
 お見舞い──その言葉はあまりにも凜に近しかった。
 慌ただしくミアとリフはいなくなってしまった。
 凜はカードゲームをしているグループに混ぜてもらい、少し遊んだ。
「UNO!」
「そうはいかないからね」
「Wild draw 4。ブルーで」
「来た!」
 大勢で賑やかに遊ぶ。そんなことは久し振りだった。以前は同級生とよく遊んだ。親しい友達もたくさんいる。だが父が亡くなったあの日から、凜に遊ぶ時間などなかった。
 初めて会う人ばかりだけれど、とても楽しかった。
 楽しいという気持ち自体が久し振りだった。


 翌朝は一人で食堂に出かけた。中学生くらいの女の子たちが固まって座っていたので混ぜてもらう。
「ご一緒してもいいですか」
「どうぞ、サマースクールの子?」
「はい。日本から来ました。遠坂凜といいます」
「わーお、トオサカだって!」
 女の子たちが顔を寄せ合って凜を見つめる。彼女たちは盛んに凜に話しかけた。日本の話や遠坂家の話。どれもたわいもないことだったけれど、凜は誇らしかった。
「やっぱり違うわ。流石は『始まりの御三家』ね」
「こんな小さいのに一人で時計塔に来るなんて。勇気があるわ」
「我が家は代々、時計塔で学ぶことになっているので」
 といっても、いつ、ここに来られるのか。凜には全く分からない。毎日、あまりにもたくさんのことをしなければならないので、明日の次のことなんて考える時間がないのだ。
 凜には時計塔に来たら、会いたい人がいた。
 ウェイバー・ベルベット──
 『始まりの御三家』以外で冬木に固定拠点を持つ数少ない魔術師だ。しかも彼は工房らしい工房も構えず──つまり幼い凜を煩わせることなく、ごく普通に市内で生活しているだけだ。普段は時計塔にいるらしく、イースターやクリスマスに帰ってくる。魔術協会を通して律儀に書類が提出されるので、凜はそれだけが判っていた。
 一度だけ、会った。冬木教会の一室で。
 ごめんね。僕は遠坂の御頭首とは会っていないんだ。
 何も言っていないのに、分かってくれたような気がした。
 父が亡くなってから、凜の周囲は思惑のある大人か、仕事だから付き合ってくれる大人しかいなかった。学校の同級生に自分がかかえている二重の苦しみが分かろうはずもない。父親がいない子なんて同級生には誰もいないし、母の介護に追われていることなんて、判っていても、分かってはいない。魔術師として、将来に大きな不安をかかえていることなんて、誰にも話すことはできない。
 弱さをみせたら、負けてしまう。
 誰も信じちゃいけないの。
 覗きこんだウェイバーの顔をよく覚えている。
 ふんわりと柔らかい瞳は真っ黒で、揺れる黒髪も真っすぐで、外国人という感じがしなかった。大丈夫? 声が聞こえるような表情だった。初めて優しくしてもらったような気がした。
 私は彼を頼りたいんじゃないの。知り合いがいると判っているのに、挨拶もしないなんて、お父さまが知ったらお叱りになるわ。私はそんなことをしてはいけないってだけよ。それに、どうしても聞かなければいけないことがある。
 そのとき、ざわっと食堂がうるさくなった。
「え、何?」
 驚く凜に向かいの少女が笑いかけた。
研究生スカラーよ。人気者なの」
「久し振りじゃない?」
「なんか、また病欠してたみたいよ」
「あれ、嘘らしいじゃない。研究生スカラーはどこかで秘密の研究をしてるって」
 凜は椅子から伸び上がったが、人だかりで様子が分からない。
 Squad of Solomon’s Scholarと言っていた。たぶん、その研究生スカラーが現在の時計塔のトップなのだろう。
「あの噂、本当なの?」
弱い魔術師でも●●●●●●●トリエスに入れば●●●●●●●●強くなれる●●●●●って話?」
 思わず凜はそちらを見つめた。
「何ですか、そのお話」
 少女たちははっとしたように、ごまかし笑いをはじめた。
「単なる噂よ。そんな事あるわけないんだけど」
「でもトリフォン、すごいじゃない?」
「そうよね、半年前は落第寸前だったのに、今はちゃんと席次を上げてるし」
 こそこそと囁かれる噂に凜は肩をすくめた。
 昨日、見たわ。トリフォンさんは努力してるだけよ。ちゃんと練習してたもの。魔術の本質は積み重ね。サボらなかった分だけ強くなる。
 思って、凜は自分を省みざるをえない。
 お父さまはどう思っているかしら。私が、毎日の練習さえもままならないことを──
 そのとき、悲鳴のような声が上がった。
 弾かれたように見て、凜は目を丸くした。
 人混みの中で、誰か倒れそうになっていた。それを引きずるように抱きとめている背高のっぽの少年がいた。薄い金髪と水色の瞳、背が高くて体格もしっかりしている。ぼさっとした金髪が食堂の明かりにちらちら光る。
 彼がぐいと脇に手を入れて抱き支えているのが、
「ウェイバー、あんた、本当に『退院』許可が出てるのかよ!」
 あの人だ!
 凜は立ち上がる。
 切り揃えた黒髪、細い身体、ゆらりと落ちる細い指の手、地味だが上品なサマーセーターとスラックスの組み合わせ。あのとき見た彼に間違いない。
「ちょっと、凜ちゃん」
研究生スカラーに気安く近づいちゃダメだよっ」
 挨拶しなきゃ。凜は無視して食堂を横切る。
 少年の腕の中からウェイバーが抜け出すと、凜にも顔がはっきり見えた。魔術師にはめずらしいほど柔らかい印象の少年のような顔立ち。彼は眉をしかめて黒髪をはらった。
「出てるさ。ずっと引きこもってもいられないだろ」
「マジか。おばさんに確認とんぞ」
 訝しむ少年の横から凜は様子を窺う。周りはずっと背の高い男女の生徒に囲まれていたが、凜は小さいことが幸いし、彼らの間を抜けて一番前に出られた。
「勝手にしろ」
 意外だった。あのウェイバーが苛立った低い声で肩をすくめた。
 金髪と水色の瞳の少年がウェイバーのあごに指を引っかけて覗きこむ。
師匠マスター、頼むよ。俺の心臓を止めないでくれ」
「大袈裟だな、本当に」
「あの」
 あまりにも空気を読んでいない。そうは思った。だが、チャンスを逃すことはできなかった。サマースクールの期間は長くない。もう一度会う機会があるとは限らない。
 凜は堂々と胸を張った。
「ご無沙汰しています。ミスタ・ベルベット」
 すぐにウェイバーが気づいてくれた。彼はふわっと微笑んだ。
「こんなところで。久し振りだね。サマースクールで来たのかな」
「はい。冬木では御挨拶も申し上げず、失礼しました」
 この一年でウェイバーは何度か冬木とイギリスを行き来している。
 ウェイバーが黒髪を揺らして首を振る。あのときのように膝に手をついて覗きこまれた。近づかれても怖くない。綺礼とは全然違う。
「お互いに気にしなくていいと思うよ。大した規則じゃない。元気だった?」
「……」
 そんな当たり前の挨拶が、凜には眩しかった。
「はい。御蔭様で」
 可哀想に。もうお父さんがいないんですって……病院で、銀行で囁かれる憐憫の数々。私にはちゃんと聞こえてるのよ。仕方がないじゃない。聖杯戦争は死ぬのが当たり前の戦いなのよ。
「しょっちゅう出入りしてごめん。おばあちゃんとおじいちゃんを放っとくわけにはいかないから」
「分かります」
 じっとウェイバーが見つめている。何故か急に、あの黒い瞳が大地に開いた穴のようだと思った。
 凜が俯いてしまったとき、ウェイバーがすっと背筋を伸ばして大きく息をついた。
 とたんに、隣の水色の瞳の少年がウェイバーの肩を横抱きにした。
師匠マスター、もう見てられないっす。戻りますよ」
「ちょっと待って」
 ウェイバーが再び凜に顔を寄せてくれた。
「楽しんでいって。サマースクール。楽しくないこともあるかもしれないけど、ちょっとでも」
「はい!」
 凜は弾けるような笑顔でウェイバーに応えた。
 その後はわっと凜が囲まれた。
「なんで研究生スカラーと喋ってんの」
「私は冬木の管理者セカンドオーナーで、ミスタ・ベルベットは冬木に拠点をお持ちだから」
 凜の言葉に周囲の生徒がざわめいた。
「……なんだ、結局ウェイバーのやつ、準備してたってことなのかよ」
「君、トオサカの子なのか」
「はい」
 それは誇らしい気持ちを呼び覚ました。遠坂の家が守らなければならないものを思い出させた。何よりもまず、魔術家門として立たなければならないという、当たり前のことを。


 その日も様々な授業を体験した。午前中の最後に実技授業の見学があった。魔術師同士の戦いを想定した実戦形式の授業だ。十人ほどの生徒──見学用のデモンストレーションなのか、最上級の席次の生徒たちだと紹介された。
 その中にミアと彼女を迎えに来た少年、そしてウェイバーと口論していた、あの少年がいた。
 彼らは飛び抜けていた。
 申し合わせたように他の生徒たちを連携して撃退。短時間で三人だけになると、今度は彼らだけで戦いはじめた。結界の向こうで炎と風、白い冷気が絡みあう。凜には誰がどの術を使っているのか、判断が難しいほど術式展開が速い。
「やっぱり桁違いね。マックスは」
「ミアの方が強いと思うけど」
 サマースクールの子供たちだけではなく在校生も見学していた。彼らは口々に三人を賞めて、ため息をつく。
「トリエスは特別」
研究生スカラーが目をつけたメンバーが普通じゃないだけよ。強くなれるなんて嘘」
「そうねえ」
 マックスが炎を、水色の瞳の少年が氷をぶつけあい、蒸気が結界の中に充満する。風が蒸気をさらった後、彼らは競技場の地面に座りこんで、あっけらかんと笑っていた。ミアがドレスの腰に手をあてて、何事か説教しているようだ。
 いいな。楽しそう。
 凜は茫然とするしかなかった。
 見学が終わって廊下に出ると、ため息が出た。自分はいつ本格的な魔術の修行ができるのだろう。それこそが、やらなければいけないことなのだ。
「リン・トオサカ」
 声をかけられて、凜は顔を上げた。
 目の前にウェイバーが立っていた。夏らしいクリーム色のリネンセーターに黒いスラックス。シャツは爽やかに明るいパウダーブルー。タイは黒にクリーム色の細いストライプ。切り揃えた黒髪とよく合って品がいい。ポケットに手を入れて穏やかな笑顔で見つめていた。
「この後、時間ある?」
「え?」
「授業があったら仕方ないんだけど、どうしても聞きたいことがあってさ。知らないわけじゃないし、時間もらえたらいいかなって思って」
 ウェイバーが子供である自分に譲歩した話し方なのに驚いた。
 綺礼は頭ごなしで私の言うことなんか聞いてくれない。でも、この人は違うんだ。
 それに、この人にしか聞けないことがある。
「あります、時間」
 ウェイバーがぴっと右手を顔の前に立てて、頭を下げた。
「決してやましいことではないんだけど、他の人に聞かれたくない話なんだ。僕の部屋でもいいかな」
「……」
 知らない人についていってはいけないとか、親しくない人間に近づきすぎてはいけないとか。
 凜の頭の中には常識的な注意がしっかり入っていた。
 だが凜は、ウェイバーなら信じられると思った。聖杯戦争から生還するほどの魔術師である。時計塔でも、やはり頭角を現しているわけで、そんな人がおかしなことはしないだろうとも思った。
 それに、
「私も聞きたいことがあって。ちょっと人前では話せないことで」
 ウェイバーが緊張して真顔になった。
 彼はまた、話さなくても分かってくれたような気がした。
「いいよ。じゃ、行こうか。なかなか一人になれなくて。今は少し時間があるはずだから」
 ウェイバーに連れていかれたのは学園の隣の建物だった。階段を上がると、廊下に眩い夏の陽射しが入っていた。
「ここだよ」
 ウェイバーが扉に手をかけたとき、凜は直感的に、そこに入りたくないと思った。
 自分以外の、あるいは血縁以外の魔術師が作った結界が怖い。
「貴方は嘘をついたんですね、ミスタ・ベルベット」
「え、何?」
 ウェイバーがドアを開けたまま止まっている。凜はなかなか一歩が踏み出せない。
「貴方は、私ほど魔術が使えないって言ったけど、こんな結界を組めるんじゃない。私よりずっとすごい魔術師だわ」
「あー、これね。僕じゃない」
 ウェイバーが大きく肩をすくめた。揃えた黒髪がさらっと揺れて、爽やかな音がした。
「これ、先生が遺したものなんだよね。便利なんで、そのまま住んでるだけで」
「え?」
「君もおうちの工房って御先祖から引き継いでたりするわけでしょ。同じだよ。Come in.」
 ウェイバーは優しく笑っている。
 凜は勇気を出して中に入った。
 そこはとても明るい場所だった。そして、なんだか変わっていた。工房という感じがしない。
 本棚には魔導書ではなく、アレキサンダー大王とギリシアに関する本が詰まっているように見えた。壁には馬の写真が飾られているし、部屋の真ん中には大きなラグが敷かれていて、たくさんのクッションが放り出されている。しかもデザインがまちまちだ。大きさも違う。
 それに、凜にはこの部屋が見たままの空間でないことが感じとれた。
 ベッドの奥に別の空間が畳まれている気がする。
 やっぱり普通の人じゃないんじゃない。凜は独りごちる。
 左の窓に近いところにティーテーブルと椅子が二脚あり、そこを勧められた。
「どうも」
 ウェイバーがお湯を張ったマグカップにティーバッグを突っこんで、凜の前に置いた。ティーバッグを置くための皿がテーブルの真ん中にあり、乾いたティーバッグがくしゃくしゃと積まれていた。
「なんかあったかな、ええと」
 ウェイバーが戸棚を開けて、フォートナム&メイスンのショートブレッドを小皿にざらざらと出す。
「遠坂のお嬢さんの口に合うか、分からないけど、どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
 ウェイバーは向かいに腰を下ろして、小さなバスケットからティーポットを出す。そのお茶をマグに注いだ。
 凜はおそるおそる小さなショートブレッドをつまみ上げた。おかしな術がかかっているとは思わなかった。普通のお菓子だ。
「ん」
 思い切って口に入れると、ヘーゼルナッツの風味がして香ばしい。
「美味しい!」
 思わず笑ってしまうと、ウェイバーがほっとしたように向かいで肘をついた。
「よかった。元気そうで安心したよ」
 凜は思わず目を見張った。自分と彼の間には何もないはずだ。心配してくれていたというのだろうか。
 ウェイバーが肘をついたまま、揃えた黒髪を揺らして、はにかむように目を細めた。
「僕も早くに母を亡くしてね。ちょっと気になってたんだよ、君のこと」
「大人の助けが必要な時は綺礼がやってくれます。大丈夫ですから」
 ウェイバーの顔が硬くなる。
「綺礼? って、まさか言峰綺礼なのか」
「はい。父が私の後見人に指定していたので」
 本当は嫌だったが仕方がない。
 一方のウェイバーは固まるしかない。
 実はウェイバーには全く違うものが見えていた。
 比較対象が全くないので確信が持てないが。やっぱり、この子、五重複合属性アベレージ・ワンじゃないか。初めて会った時は分からなかったが、マーリンの結界に暮らし、ドクトル・ファウストの術式にも触れた今、彼女はそう●●だとしか思えなかった。
 恐ろしく強い魔力を持っているにもかかわらず、静謐なのだ。
 四重属性のミアと比べるとよく分かる。彼女が近くにいるとオーケストラでも鳴っているように感じられる。豊潤な波動の重なり合いがウェイバーの肌を震わせるのだ。
 だが凜は全くそんな感じがしない。
 全ての調和がとれ、非常に安定している。
 これが一つに均すアベレージ・ワンと呼ばれる理由なら、納得するしかない。
 そんな子の後見人が言峰綺礼だって!?
 いくら父親・遠坂時臣の弟子だったとはいえ、彼が魔術師殺しのスペシャリスト、代行者であることに変わりはない。
 凜が幼い顔を毅然と上げ、ウェイバーを見つめた。
「綺礼には何度聞いても教えてくれなくて。貴方は父を殺したのは誰だと思いますか。知っていたら、教えてください」
 ウェイバーはぐっと言葉に詰まる。
 実のところ、ウェイバーはその点について疑念がある。
 ウェイバーは第四次聖杯戦争に関する魔術協会・聖堂教会第八秘蹟会双方の記録を読んだ唯一の人間である。
 第四次聖杯戦争の最終決戦は、セイバーたるアーサー王とアーチャーたる英雄王ギルガメッシュによって行われた。それぞれのマスターは衛宮切嗣と凜の父である遠坂時臣。
 ところが、聖杯戦争十日目に衛宮切嗣が遠坂邸に侵入し、時臣の血痕を確認しているのだ。
 アーチャークラスはマスターを失っても二日間は限界が保たれる特長があり、ギルガメッシュの限界が保たれていても不思議はない。
 だけど、現実問題、遠坂時臣はいつ、誰に殺されたのだろう。
 多くの情報を手に入れた今、ウェイバーには不思議でならない。
 最終日前日、サーヴァントを維持していたのは衛宮切嗣、遠坂時臣、間桐雁夜、そして自分の四人だけだった。そのうち、時臣が死亡していたとして、誰が下手人なのか。一番怪しいはずの衛宮切嗣が時臣と接触していないらしいのだ。
 となると消去法で間桐雁夜が唯一の容疑者だが、時臣殺害の証左はない。その間桐雁夜も英霊サーヴァントを失った後、絶命している。今となっては確認のしようがない。
 そもそも衛宮切嗣の証言を全て信じていいのかという問題もある。
 一番、判断に悩むのはアーチャーたる英雄王本人だ。
 聖杯問答の夜、間近で彼が話すのを聞いていたウェイバーだ。英雄王が聖杯に一片の興味もないことが分かっている。
 彼は契約者マスターを失ってまで聖杯戦争を続けるだろうか。
 セイバーへの異常な固執が関わっているとしても、それが導き出すだろう結果が全く想像できない。
 そして彼は受肉した。
 誰かの願い●●●●●を聖杯は受けたんだ。
 死んだマスターの? そんな馬鹿な。
「まず最初に言っておくけど、僕とライダーじゃない。前に言った通り、一度も時臣氏とは会ったこともないし、顔さえ知らないんだ。君のお父さんが殺された可能性がある時間、僕とライダーはずっと一緒にいた。絶対にライダーがやっていないと断言できる」
 ウェイバーが真摯な眼差しで凜を見つめる。
「信じています」
 凜は素直に頷いた。
 直感としか言い様がないが、この人は人なんか殺さない気がする。綺礼とは違う。
 それに、もしミスタ・ベルベットがお父さまを殺していたら、御頭首なんて呼び方はしないと思う。
「貴方だと思ったら、私はここに来ないし、貴方にこんな大切なことを聞けません」
「そうだよね。ホントにとんでもない戦いだったよ。なんで生き残れたのか、今となっては分からないと思うくらい」
 ウェイバーが脱力して椅子に沈む。彼は黒髪をかき上げるように額に手をあてていた。
「間桐か衛宮切嗣か、どちらかしかありえないと思うけど、どちらも確証がないんだよね。少なくとも衛宮切嗣は自身による時臣殺害を認めていない」
 凜は胸が氷りつく。
 間桐のおうちがお父さまを殺したかもしれないって。そんな馬鹿な。桜は、どうすれば。
「本当に間桐なんですか」
 ウェイバーはマグを握って額を押さえる。
「何も確証はない。そもそも間桐のマスターも死んでいるし」
「えっ」
 まさか、雁夜おじさんが。
 凜は口元に手をあてて茫然とするしかなかった。
 ウェイバーが唇を噛んでマグカップを両手で抱いた。
「もしかして、僕は余計なことを言ってしまったかな」
「ううん、知らないより、知ってる方がいい。誰も何も教えてくれなくて。私も遠坂の魔術師なのに何も知らないのは嫌。お父さまを殺したやつも知らないなんて!」
 凜が叫ぶと、ウェイバーはだらりと椅子の背に身体を預けて、天井を見上げていた。
「うーん、最後の二日間て、本当に何も分からないんだよ。僕は英霊サーヴァントのセイバー、アーチャーとしか会ってないから」
「そうですか」
 凜は力が抜けそうだった。
 最後まで生き残った人に聞けば分かるはずだと思いこんでいた。
「ごめん、力になれなくて」
 凜は黙って首を振る。彼でさえ分からない。それも一つの答だ。
 ウェイバーが身体を起こし、ぐいとマグカップを干してテーブルに置く。
「こんなことを聞くのは、ものすごく不躾で失礼なことだと分かってるけど、僕としてはチャンスを逃すわけにはいかなくてね」
 凜は緊張してウェイバーの言葉を待つ。
 鉄のような眼差しが凜を貫いた。
「もしかして君は五重複合属性アベレージ・ワン?」
 凜はまじまじと目を見開いた。
 私は何もしていない。ただ彼と話して、ここにいるだけ。何かの術がこの部屋にかかってるの?
 いいか、凜。お前は稀有なる属性を持って生まれた。我が家の創祖たる永人以来の五重複合属性だ。しかし、そのことを人に言ってはいけないよ。自分の属性は注意深く隠しなさい。そもそも魔術師にとって属性を見破られるのは危険なことだ。だがお前にとって、それはもっと大きな危険になる。
 誰もが欲しいと思っているものを、お前は持っているのだからね。
「なんで、なんで」
 凜は立ち上がりたかったが、怖くて足が動かなかった。
 ウェイバーが今度は困ったように視線を外に流した。
「解っちゃうんだ。あまり詳しいことは言えないんだけどね。君はあまりにも強い魔力を持っているから、特性が見えてしまうんだ。僕には」
「貴方はいったい何者●●なの。術も見ずに属性が分かるなんて聞いたこともないっ」
「ウェイバー・ベルベット。それが僕の名前だよ」
 彼は黒い瞳を軟らかい土のように和ませて微笑んだ。
「冬木に帰った時、訪ねてもいいかな。君の家を」
「いいですけど、別に」
 凜はつんとあごを反らした。
「私は母さんのお世話もしなければならないから、だらだら遊ぶわけにはいかないですけど」
「あ、そうなんだ」
 胸をつかれたようなウェイバーに、少し言いすぎたかと思った時。
「ウェイバー! ここにいたっ」
 ばたんとドアが開いて、凜は飛び上がりそうになった。
「先生、また倒れたって」
 わらわらと子供たちが走りこんでくる。ミアが座ったままのウェイバーの胸に飛びこむと、それをさらにトリフォンがかかえこむ。そのトリフォンを引き剥がして、今度は水色の瞳の彼がウェイバーの頬に手をあてた。
「やっぱ熱あるじゃねえかよ」
 それをミアたちを迎えに来た彼──見学のときに聞いた名前は確かマックス──が見守っている。彼が丁寧に扉を閉めた。
「すぐ下がる。薬は飲んだ。ほら、離れて」
 ウェイバーが身じろぎすると、彼らはそうっと立ち上がり、ミアはドレスを直している。
 そこでミアが凜に気がついた。
「あら貴方、昨日の子」
「こんにちは」
 凜はそう挨拶するしかない。
「ん、誰?」
 水色の瞳の少年が覗きこんだ。とにかくミア以外は三人とも見上げるほど背が高くて驚いてしまう。しかし彼らに威圧感はなかった。綺礼のような近づきたくない感覚はない。
 凜はぴょんと元気に立ち上がり、軽く会釈した。何度目か分からない自己紹介だ。
「初めまして。遠坂凜といいます」
 すると彼はああ、とため息をついた。
「その節はどうも」
「何ですか」
 ウェイバーが乱れた黒髪を直しながら、凜に視線を寄越す。
「彼はケイネス・エルメロイ・アーチボルトの再従兄弟だ」
 ランサーのマスターだ。凜はちゃんと覚えていた。すっと頭を下げる。
「過ぎたことではありますが、ご愁傷様でございます」
 大人びた挨拶は凜が辿ってきた道筋を一同に知らしめてしまった。ミアとマックスが見つめあい、それからいたわしげに凜を見やる。
 水色の瞳の少年、ライネスがポケットから手を出して小さな凜に目礼した。
「いや。その。それはお互い様だと思うぜ。お前も親御さんを亡くしてるはずだよな」
 凜は突然、泣きそうになった。
 泣いてはいけない。こんな初めて会う人の前で。
 彼が意外と穏やかな優しい顔でテイルコートの胸に手をあてた。
「俺はライネス・アーチボルト。叔父上の後を継ぐ。よかったら来年の叔父上の命日に一族で花を手向けたいんだが、入領許可をいただけるかな。管理者セカンドオーナー
「もちろん。構いません。そういった御理由なら」
「後で書面を提出しておく」
「分かりました」
 凜の淡々とした口調は子供らしくない。だが凜自身には、それが分からない。
 顔を上げたとき、凜の頬を涙が伝った。
「あ、あっ」
 凜は慌てて涙を隠そうとした。するとミアがドレスを飜して凜を抱きしめた。
「泣いてもいいんだよ。先生の前では。先生は優しいから」
「でもっ……でも」
「大丈夫、あたしも先生に初めて会った日、泣いちゃったから」
 お母さんに抱きしめられて以来だ。あの夜が最後だった。聖杯戦争のあの日。
 私が幸せだった、最後の日だ。
 凜はミアにしがみついた。ミアが母のように背中を撫でてくれる。それは、とても優しくて、懐かしくて、涙が止まらなくなった。
 ライネスが困ったように呟いている。
「なんでなんだろうな、あんたの前に出ると皆、心の蓋が開いちまう」
「僕は何もしてないんだけどな」
 ウェイバーがぼやくような口調だ。
 そんなことはない。
 貴方は優しくしてくれた。私をちゃんと一人の人間として扱ってくれた。魔術師でもなく、子供でもなく、可哀想なものを見る目でなく。
 凜がやっと落ち着くと、ウェイバーが黒髪をすいとかき上げて鉄の眼差しを外に投げた。
「別に後回しにする必要はないか」
「あ、そういうこと。じゃ」
 ライネスがそっとウェイバーの首に手を触れさせる。凜はあっと目を見張った。美しい魔力の片鱗が散って、彼の実力が垣間見えた。
 すごい。この人、すごく強い。
 ウェイバーが触られたところに手をあてて、目を眇めている。
「ライネス? 何をした?」
「そうしておいた方がいいと思います」
 マックスがほっとしたようにウェイバーに歩み寄る。
「冷却の術ですよね」
「そう、勝手に解呪するなよ。二時間で自動解呪する。そしたら、庭に戻れよ」
「うーん……いま戻りたくないんだよ」
 ぼやくウェイバーをトリフォンがはっとした顔で覗きこんだ。
「もしかして先生、喧嘩したんですか」
「……う、うるさいっ」
 ウェイバーが癇癪を起こしたように肩をすくめたので、凜は驚いた。彼は頬を紅潮させ、ぎゅっと目を閉じていた。
「とにかく、凜も一緒に練習しないか? これから僕たち、ちょっとした基礎練習をするから」
「え……っ」
 ミアが凜の頭を撫でながら、にっこり笑った。小さいのに綺麗すぎて大人みたいだ。
「貴方、昨日はすごく上手かったじゃない。先生が呼ぶんだから訳があるんでしょ。あたしはいいわよ。一緒にやっても」
「俺も。トオサカには御縁を作っておきたいんでねー」
 ライネスがちゃっかりした様子を作る。それがスタイルであることが凜には分かった。本当に下心のある人間は、それを口に出さないものだ。寂しいことだが、それが分かる程度に凜は苦労していた。
「トリフォンとマックスは?」
 すぐにマックスが穏やかに頷いた。
「Ja, wohl.」
 トリフォンが照れ笑いする。
「先生のお好きなように。この子、おれよりちゃんとしてるの、昨日見たので」
「I see. じゃ、始めよう」
 ちょっと変わった練習だった。直接、術を起動することなく、連動して魔術回路を励起する。強さや出力はかなり厳密で、ウェイバーの合図に合わせて同時に回路を起動したりする。もちろん凜も参加した。
 これは準備運動だったようで、その後はトリフォンと凜の基礎練習になった。
 凜は注意深く属性を隠した。空はもちろんのこと、風の属性も隠した。
 ミアとマックスが火、ライネスが水の基礎練習を教えてくれた。それは凜が一番したかったことで、教えてほしかったことで、夢中になった。
 ライネスが提示した方法はとても簡単で面白かった。コップに半分ほどの水を手のひらに乗せ、コントロールする。
 火の練習はミアとマックス、トリフォンと一緒に。ウェイバーと、特にライネスが非常に強い力を持っていることは分かるのに、全く火のコントロールができないのは驚いた。普通は、火は基本の属性なので少しなら使えることが多い。二人は極端に属性が偏る特殊ケースなのだそう。
 夕食は皆で外に出た。
 賑やかな外食も久し振りだ。皆でわいわいギリシア料理を分けあう。途中、おかしなことがあった。突然、ウェイバーが脈絡もなく叫んだのだ。
「もう、だからっ、お前が生きてた時とは違うんだって!」
 野菜で巻いた一口ピラフを食べながら、ウェイバーはもくもくと口を動かし、不機嫌そうな顔をしていた。
「先生、謝っちゃったらどうですか」
 トリフォンに言われると、彼はかっと眉を吊り上げた。
「絶対いやだ。ここで折れたら終わりだろ」
 ライネスは何も反応せずムサカを取り分けていて、ミアは少し心配するように見つめていた。マックスが魚のフライを突き刺してミアに差し出すと、今度は彼女がつんと横を向く。
「あたしは鮭しか食べないのっ」
 可愛いミアの我がままは光り輝いてみえる。だが兄であるマックスには通用しない。彼はフライをかじってため息をつく。
鱸のフライスブラキ、美味しいのに」
「やだやだやだあ、お魚は鮭しか食べられないの」
 思わず凜は笑ってしまう。この人たちは、なんて自由なのだろう。魔術師の常識からかけ離れている。凜は生来の明るさを取り戻し、積極的に話せた。ぴっと指を立てて、ぱっと笑う。
「ミアさんも冬木に来てくれたら、お魚、好きになるかも。冬木はシーフードが名物なのよ」
「ええ、そうなの!? 先生、冬木はお魚おいしいってホントなの」
 ミアが不思議そうにウェイバーを見上げる。ぱっとウェイバーがいつもの表情に戻った。彼は揃えた黒髪を揺らしてあごを上げた。男の人とは思えないほど首が細い。涼しげで親しみやすい空気が彼をつつんでいる。
「そう言われれば、そうかな。見たことない魚もいたけど、全部、美味しかったよ。あと海老かなあ。日本の海老は美味しいよ。天麩羅とか海老フライとか」
「へえ、行ってみたいですね。先生の御実家にも」
 トリフォンが白い髪を電灯に燦めかせて乗りだす。彼も楽しそうだ。
「皆さんが冬木に来たら歓迎します」
 凜が結った髪を揺らして得意げに笑うと、ミアがウェイバーにごねた。
「先生、日本だって! 連れてってよ!」
「ええ!? マーサに聞かないと」
 たわいもない話。そういえば私、そんな先の話、あるかどうかも分からない話をしたの、久し振りだ。
 ここ●●にいると未来が見える。
 帰りがけ、寮への廊下でウェイバーが振り返った。
「僕、今夜はあいつ●●●とケリつけるから。明日、出てこなかったら、そういうことで」
「はいはい。ほどほどにしてくれよ、師匠マスター
 ライネスはさらりと別れ、マックスは穏やかに一礼してライネスの後を追う。トリフォンがぎゅっとウェイバーを抱きしめた。
「Dobrou noc, my master.」
 力任せに絞られて、ウェイバーは苦しそうにしている。動けないウェイバーの頬にミアが伸び上がってキスをした。
「Gute nacht, Meister.」
 ミアは凜と手を繋いで、寮への廊下を歩き出した。
「もう。先生は意地、張り出すと長いのよね」
「ミスタ・ベルベットは誰と喧嘩してるの」
「そのうち解るわ。先生の心にはずっと棲んでる人がいるの」
 なにやら恐ろしい話のように思ったが、ミアにそんな雰囲気はない。ミアは特別寮まで送ってくれて、自分の部屋に帰っていった。
 そして、その日から、凜の生活は一変した。


 翌朝の食堂では全く雰囲気が違った。というか、凜に対する周囲の態度が豹変した。近くに見つけたグループに凜が声をかけると、彼女たちは奇妙な反応をした。
「ご一緒してもいいですか」
「えっ!?」
「いや、無理無理」
研究生スカラーに声かけられたんでしょ、あたしたちとは違うって」
 凜は食事券を握って茫然とするしかなかった。別のグループも似たような反応で凜を仲間に入れてくれない。
 何よ、これ。私が何をしたっていうのよ。
 食堂を見回すと、すぐに背高のっぽの白い頭が目についた。白っぽいグレーのモーニングで間違いない。
 一人で男子生徒と食事をしちゃいけないってオリヴィーは言ってたけど、この際、完全に反対になってるわよね。
 凜は迷わずトリフォンの前に座った。
「おはようございます、トリフォンさん」
「おはよう。君はミアと違って早起きできるんだね」
 トリフォンは注文を待っているようだ。彼の前に食事が出ていない。ちょうどよかった。
「ええ。朝早いのは慣れています。母さんの病院に行くこともあるから」
 凜の言葉にトリフォンがため息をついた。
「そうか。小さいのにエラいなあ。おれなんかとは苦労の仕方が違うよ」
「トリフォンさんも突然、おうちを継いだんですよね。私とあまり変わらないと思いますけど」
 昨日聞いた、トリフォンの実家ユラーセク・フラヴナの実情は遠坂や間桐と変わらないように思えた。魔術闘争の果ての一族断絶の危機。普通の人には想像もつかない惨状だが、魔術師の家ではめずらしくないのも事実だった。
 だがトリフォンは灰色の瞳を和ませるように笑ってくれた。
「いやいや、大違い。おれのことはリフでいいよ」
 トリフォンが給仕を呼んでくれた。そこにすいと、ライネスが現れた。
 ライネスはリネン仕立ての薄いテイルコートをまとっていた。黒というより、わずかに透ける濃灰色に見える色目だ。襟元はしっかり締めていて真っ白なスタンドカラーのシャツが眩しい。チーフは銀色みたいなクールグレイ。足元も革を編み上げたギリーシューズを履いていた。
 わあ、お洒落。ちょっと凜は感心する。
 凜の感覚では冬服でいられるのだが、彼らはもう暑いらしい。
 ライネスが無言で、当然のようにトリフォンの隣に腰を下ろす。
「おはようさん」
「おはようございます」
「Dobré ráno.」
 ライネスは椅子に行儀悪く横座りして凜を見つめた。
「なんだ、女の子と食べなくていいのか」
「だって誰も仲間に入れてくれないんだもの。なんなのよ、昨日までは皆、仲良くしてくれたのに」
「それが時計塔」
 ライネスが給仕を呼び止めて朝食の注文をつけている。トリフォンが苦笑いして凜を見つめた。
「おれも同じだったよ。最初は誰でも仲良くしてくれたんだけどね。ミアに教わって席次が上がりはじめたら、態度が変わってしまった子もいるよ。もともと、おれは皆と歳が離れているから仕方ないけど」
「変だと思います。成績で態度を変えるなんて」
 凜は毅然と言い放つ。父の生前から意地で優等生を保つ凜である。そんな話は頭に来る。
 朝御飯は毎日フル・ブレックファストで、凜は少しずつ付け合わせを変えたりしているが、ライネスはソーセージ一辺倒なのだそう。トリフォンはパンが美味しくないとおかんむり。トリフォンは大人なのに一緒にいても変な感じがしない。
 食べながら昨日の練習を振り返る。
「あの、水を上手に保てなくて。どうしたらライネスさんみたいに、きれいな球形に保てるんですか」
「それは、うーん。実のところ、うちの系統なのかも知んなくてさ。叔父上は水銀でやってたんだよな。あっちの方がやりやすいとは思うんだけど、失敗したとき悲劇じゃん」
「あー」
 トリフォンと凜は半目で頷くしかない。凜もいくつも水晶をぶち割ってきた身の上だ。
 そこにマックスが現れた。夏らしい明るいグレイのモーニングで涼しげだ。艶々と光っていてリネンとウールの混紡だと分かる。側帯のないトラウザーズを合わせて軽やかだ。
「Guten Morgen.」
「おはよ、ミアは」
「起きてないそうです。また同室の子に嫌味いわれちゃいました……」
 整った容貌で気難しげに見えるマックスだが、話してみると全くそんなことはない。彼は長い睫を伏せて、ため息をついている。
「ミアさんは疲れてるんじゃないですか」
 凜にマックスが頷いた。朝の光の下で見ると、彼の容貌はすっきりとした彫刻のようで、凜は驚いてしまう。ちょっとウェーブのかかった金髪がきらきら光る。
「そうなんだよ。出力が大きすぎて、いつも普通の子より疲れてる。すぐに回復するんだけどね。ぼくもそうだったから分かるんだけど、ミアはぼくより重いなあ」
「しょうがねえだろ。多重属性持ちはそういうの多いから」
 ライネスがベイクドビーンズをかき回している。
「つかさ、二日に一回は朝、抜いてるからじゃねえの」
「それが。あらかじめ分かってるから、毎日サンドイッチ買ってるんですよ、ミアは。部屋で食べられるから出てこないのかもしれないです……」
「そうだったんだ!?」
 ライネスもトリフォンも天を仰いでいる。
 凜は自分を振り返る。
 私、そういうの何もない。介護や家事で疲れてるだけで。毎日、石に力は籠めてるけど、疲れたことないわ……
 もしかして、これが五重複合属性アベレージ・ワンのいいところなのかな。
 彼らといると考えたこともなかったことに目が向いた。


 一週間は飛ぶように過ぎた。あっというまに凜が帰らなければならない日が来てしまった。
 時計塔の入口でウェイバーを始めとする一同が見送ってくれた。
「たくさん、ありがとうございました」
 凜が頭を下げると、ウェイバーがスラックスのポケットに手を入れたまま、ふわっと笑った。
「とりあえず来月、冬木に帰るから。そしたら連絡するよ」
「はい。お待ちしています」
「あたしたち、先生について行けたら一緒に行くね」
 ミアがびっくりするほど可愛い笑顔で覗きこむ。マックスが凜と握手する。
「気をつけて。日本までは遠いから」
「ありがとうございます」
 ライネスがテイルコートのポケットから携帯を出す。
「そうだ、よかったら連絡先くれねえ!? ぶっちゃけ毎年、叔父上の命日は冬木に行きてえのよ。いちいち協会、通すのも面倒だ」
「いいですよ」
 驚いたのだが、時計塔の中で彼らは携帯を使いこなし、連絡を取り合っていた。普通の魔術師は携帯なんて使わない。凜の父・時臣も優雅な魔導具で連絡をとっていた。凜も携帯を出して──お父さまは使わなかったけど、病院や銀行との連絡に必要なので契約した──ライネスやミアたちと連絡先を交換した。もちろん、ウェイバーとも。
「じゃ、いい旅を。すぐ会えるよ」
 ウェイバーがあの、とびきり柔らかく優しい笑顔で凜を覗きこむ。
 凜は長い髪を揺らし、伸び上がって頷いた。
「はい。待ってます、先生マスター
「!」
 ウェイバーがびっくり顔で目を見開いた。凜はいたずらしたような気持ちになった。
「だって皆、ミスタ・ベルベットのこと、先生って呼んでるし。私も授業を受けたから生徒でしょ。違う?」
 するとウェイバーが照れたように黒髪をかき上げて、微笑んだ。
「I see, my pupil.  夏に僕でよければ、ちょっと見てあげるよ」
「はい! もう行きます。また」
「See you !」
 手を振って別れる。それなのに寂しくない。
 それは、とても気持ちのいいことだった。


 
日本に帰って、最初にしたことは荷物を片付けることでも、病院に行くことでもなかった。
 凜は丁寧に御礼を書いて、トリエス全員に返信した。
 それからお土産を整理して、洗濯物を洗って。嫌だったけれど、綺礼にも連絡した。
「来年もサマースクールに参加するように勧められたわ」
 完全に嘘だった。でも、どうしても行きたかった。自分が行きたいから行く、というと綺礼に邪魔される気がした。
『時計塔から推薦を受けるとは、流石は時臣師の娘さんだ。いいだろう。手配しておく』
「ちゃんとやってよ。遠坂家の恥になるんですからね」
 凜は電話を切るとほっとした。
 どう見てもウェイバーは綺礼を信用していないようだった。自分も用心するに越したことはない。
 そして、やっと母の元に帰ることができた。
「お母さん」
 病室の様子は一年を通して変わることはない。病院の中は春でも夏でも秋でも冬でも、全く変わることがない。静謐で、微かな活気と穏やかな諦観が満ちている。
 葵は車椅子に座り、窓辺で外を見ていた。
「帰ってきたわ、私」
「ほら、凜」
 凜は黙って母親の様子を見守る。車椅子に手をかけて、彼女と同じ外を見る。何故なら彼女の目は凜を見ないと分かっているから。それは仕方のないことだ。彼女は彼女の思い出の中に棲んでいる。過ぎた時の向こう側に。
 母さんは私と違う時間の中にお住まいなのだ。
 ただ、それだけだ。
「暑くなってくるわね」
「そうね」
「桜の夏服を出さないと。制服は用意した?」
「はい。お母さん」
 凜の頬を涙が伝う。
 帰ってきてしまった。ここに。ここにあるのは止まった時間だけ。だけど私は、ここにもいなくてはいけない。
 病院から出ると陽が傾いていた。夏至が近い。夕暮れでも空は高く、明るかった。イギリスのような水色の空が広がっていた。
 大丈夫。
 私には、あの人がいる。私を未来に連れ出してくれる。きっと。
 すぐ会えるよ。
 お母さんもお父さまもいない暗闇から抜け出せる。
 この夕日の向こうに、あの人がいる──ミスタ・ベルベット。貴方が私の先生だ。
                                 END

ウェイバーが里帰りする話 深山町内会長はあの人だったッ! に続きます


サポートには、もっと頑張ることでしか御礼が出来ませんが、本当に感謝しております。