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Fate/Revenge 10. 聖杯戦争三日目・夜-②──終わりの始まり

 二次創作で書いた第三次聖杯戦争ものです。イラストは大清水さち。
※執筆したのは2011~12年。FGO配信前です。
※参照しているのは『Fate/Zero』『Fate/Staynight(アニメ版)』のみです。
※原作と共通で登場するのはアルトリア、ギルガメッシュ、言峰璃正、間桐臓硯(ゾォルゲン・マキリ)です。
※FGOに登場するエンキドゥとメフィストフェレスも出ますが、FGOとは法具なども含めて全く違うので御注意下さい。

 その夜、闇が落ちると、セイバーたるアルトリアは実体化した。カスパルとは話したくもなかったが、マスターなしでは遠くに行けないのが英霊サーヴァントの宿命である。またカスパルから目を離すのも危険な気がした。
 この少年は大した魔術は使えないようだが、その心根は魔術以上に危ういものに変わっていた。
「カスパル、孔雀島に行きましょう」
「孔雀島?」
 静かなアルトリアの口調にカスパルが首を傾げる。
「どうして?」
 バーサーカーの根城があるので。答えそうになってアルトリアは目を伏せた。ランサーに教えてもらったことを口外しない約束であったし、仮に告げたとしてもカスパルは信じないだろう。敵のサーヴァントの情報を真っ向から信じるのも、本来であれば愚かなことだ。
 だがアルトリアはランサーを信じていた。
「郊外に行けば戦いが起こるという私の考えは正しいと思います。昨夜も運良くアーチャーと巡りあったではありませんか」
「ああ!」
 カスパルが明るい顔に変わり、すっと自分の右手を見つめた。白く二画を失った右手がカスパルに勝利の実感を蘇らせた。カスパルはぱっと両腕を広げて大きく頷く。
「行こう、セイバー! 孔雀島ってポツダムの方にあるんだよね。フロントで場所を聞こう」
「そうしましょう」
 アルトリアは実体化したまま、カスパルの後についていった。
 ホテルのコンシェルジュは丁寧に孔雀島の位置を教えてくれたが、これから行きたいというカスパルの言葉には肩をすくめた。
「今から行かれるって、それはお勧めできません。夜は渡し船が出ておりませんし、あの辺りは人家も少なく物騒でございますよ。昨夜もシャルロッテンブルグの奥で何やら騒ぎがあったとか。夜のお出掛けはお勧めできません」
 生真面目な独逸ドイツ人らしくコンシェルジュは優しくカスパルに言い聞かせた。
「明日になさいませ。今宵はおよしなさいませ」
 後ろから見ていてアルトリアは腑に落ちた。何のことはない、コンシェルジュはいい意味でカスパルを子供だと思っているのだ。だから親切に教え諭さなければならないと思っている。だが、その話がアルトリアに高鳴る戦いの予感を感じさせた。人家が少ないとくれば戦場にうってつけ。
 ランサーめ、今頃暴れておるのではないか。
 戦場いくさばに遅れたとあっては恥ではないか。
 アルトリアはカスパルの横に進み出た。
「そなたが我らを思うてくれておるのは、よう分かった」
 コンシェルジュの紳士はアルトリアの青い姿が目に入ると、襟を正して背筋を伸ばした。
「しかし」
「つかぬことを聞くが、孔雀島までの地図はあるか」
「ございます」
 コンシェルジュはテーブルの引き出しから観光客向けの地図を出して、アルトリアに向けて広げた。アルトリアはすばやく視線を落として頷く。
「それから、こちらの宿に余剰の馬か自動車はあるか」
「自動車でごさいますか。この時間ですと、お客様の送迎用に使いますものがあるだけですが」
 不思議そうな顔のコンシェルジュにアルトリアはほのかに笑った。
「では前に回してくれ。私が運転する」
「えっ」
 驚いたのはコンシェルジュだけではなかった。カスパルがセイバーの手をつかんで目を丸くした。
「自動車なんて運転できるのっ!?」
 セイバーの持つ騎乗スキルは生物だけでなく、乗りものという概念全てに適用される。従って、セイバーは現界した時代にある全ての乗りもの──たとえば飛行船、複葉飛行機、熱気球、あるいは自転車といった全ての乗りものを自在に操ることができるのだった。
 アルトリアは自分よりずっと背の高い二人を、ドレスの胸をぐっと張って見上げた。
「手綱もハンドルも大差はない。車を回せる者がいなければ私が直接、車庫から出そう。案内あないせよ」
「かしこまりましてございます」
 コンシェルジュは根負けしたように車を手配した。ドアボーイが回してきた車に引き合わされて、アルトリアは少しばかり目を見開いた。
 それは車というより『馬車』に見えた。少なくとも彼女にとってはそうであった。6メートルはある長く優雅なボディは真っ白で、屋根のない二人乗り馬車カブリオレの形式だ。前輪から後輪にかけて仏蘭西風の流麗なラインを描く足掛けがついていて、車全体をすっきりと重厚に見せている。車体の半分はある長いボンネットも雅やかで、白銀のエンブレムが瓦斯灯のぼんやりした明かりに燦めいた。
「こちらが当ホテルの御用車となりますブガッティ、タイプ41。通称はロワイヤルと申します。8気筒エンジンでして排気量は14700cc、馬力は十分かと存じます。この季節ですので幌は付けておりませんが、いかがいたしましょうか」
「……今宵は雨が降りそうか」
「いいえ。俺はこの街で生まれて育ちました。御天道様にかけあって、今夜は絶対雨が降らないと断言できます」
 ドアボーイがアルトリアに向かって、ゆったりと車の扉を開いた。車内は黒い革張りの豪華なソファと磨かれた木材でぴかぴかと光っていた。アルトリアはそろりとドレスの裾をさばき、運転席に収まってみる。
 ハンドルは山吹色の革で張ってあり、アルトリアの細い手に長年牽いた手綱のごとくしっくり馴染む。
「うむ。よい。走るとしよう」
 アルトリアはドアボーイを見上げ、ふわりと空を仰いだ。
「星を見ながら車を流せるとは。よい時代だな」
「いえ、その」
 やたらと上機嫌なアルトリアにドアボーイが複雑な表情を見せた。なにしろセイバーはこの車を運転するには小柄に過ぎた。ほっそりしたドレスの少女が大排気量の車を運転するなど、この時代の常識にはそぐっていなかった。
 ドアボーイは俯き、しばらく押し黙った末、意を決したように顔を上げた。
お嬢さまプリンツェスィン、お止めなさいませ。そのような目立つ行動をすると、どこで官憲に目を付けられるか。お嬢さまの御容姿と御家柄があれば彼らも疑いはしませんかもしれません。ですが、およしなさいませ。一度疑われたら逃げられません。お生命を粗末になさってはいけません」
 必死なドアボーイにアルトリアは車の中から手を差しのべた。
 彼女は晴れやかに、清らかに微笑んでいた。
 ドアボーイの青年は慌ててアルトリアの手を貴婦人に対するように受け、車の真横にひざまずいた。そうさせてしまう輝きが彼女には宿っていた。
「案ずるでない。私は戻る」
 アルトリアの笑顔はドアボーイの胸に一陣の風を巻き起こした。
 このような美しい夜にドライヴを楽しむこと。それは少し前の伯林ベルリンならば少しもおかしなことではなかった。その頃の闊達な空気を呼び覚ますような伸びやかさが彼女にあった。
 かつて彼女が剣を執ったとき、誰も止めることができなかったように、今宵もアルトリアを止められる者などいなかった。
「かしこまりました」
 ドアボーイが丁寧にお辞儀して、反対側の席にカスパルを案内する。
 そのあいだアルトリアは華奢にも見えるギアに手をかけ、かくかくと動かし、足元のクラッチ、アクセル、ブレーキを確認する。その横顔には彼女自身も意識しない明るい笑みが浮かんでいた。
「こちらが鍵でございます。お戻りになりましたら、コンシェルジュにお渡し下さいませ」
「心得た」
 アルトリアは迷いもなくエンジンキーを差し、くるりと回した。
 ぼおうん、ぼおうん。
 この時代の車特有の重い音とともに車が振動する。蛙の目を思わせる二つのひょうきんなライトに明かりが灯る。白い光線が伯林の石畳を光らせた。
「では参る」
 ドアボーイが身体を深く折って最敬礼した。
「どうぞ御無事にお帰りください」
「ははは、私が勝てなかったのは生涯にたった一人。そいつはいない。必ず戻る」
「お待ちしております」
「うむ」
 ふわんとアルトリアの頬に垂らした髪がひるがえる。青いリボンが風にたなびいて夜空に舞った。
 クラシック・カーを駆るセイバーは伯林の人々に鮮烈な印象を与えた。
 時代がかった結い方の金髪をきらめかせ、青いマトンスリーブを舞踊のように動かし、彼女は上品に車を運転した。
 家路を急ぐ人々がぽかんと口を開けて、彼女を見つめる。白い車体に君臨するように鎮座して、滑るように行く美少女の顔は楽しげだった。
 それは伯林の街にとって一服の清涼剤であった。
 密告とスパイ狩りを怖れ、夏のそぞろ歩きもままならない伯林の人々。彼らは威勢のよい少女の行動に心中で喝采を贈った。汲々とした生活に誰もがうんざりしていた。しかし、どうにもならないことを知っていた。
 ありもしない金が湧いて出るはずがない。金のない場所に仕事のあるはずはなく、仕事のない場所に安定した暮らしなどありはしないのだった。独逸は未来に窮乏していた。希望が全て品切れだった。
 だから英雄を待ち望んでいた。
 苦境を救い、人々の心に火を灯す英雄が現れるのを。誰でもいい、何でもいい、我々を救ってくれる魔法●●の出現を──誰知ろう、彼らの前で一瞬の解放感を与える少女こそ、誰あろう、ブリテン救国の英雄アーサー王その人たらんことを。
 人々の視線は嫉妬深いカスパルに快感をもたらした。羨ましがられているという実感は勝利に似ていた。しかし、視線がセイバーだけに注がれているという事実に気づいたとき、勝利は敗北に変わった。何とも戦ってさえもいないのに、カスパルは負けたという悔しさで身悶えせんばかりだった。
 アルトリアはゆるくブランデンブルグ門から6月17日通りを流す。先に見える戦勝記念塔を見上げると、ぼんやりとした月明かり、星の瞬きの下に黄金の女神像が光っている。
「あれは普仏戦争に勝ったのを記念して建てられた像だよ。独逸ドイツ仏蘭西フランスより強いんだ!」
 無邪気なカスパルの自慢にアルトリアは眉をひそめた。
「そうですか。戦女神とは幸先がいい」
 アルトリアは誠実な人間だ。そんなアルトリアが無意識に嘘をつける瞬間があった。
 戦に出る前だ。多くの騎士や兵士を思いやり、悪いことを口にしない習慣が染みついていた。気弱な発言も決してしない。それは彼女に残されたアルトリアという人間性だったのかもしれない。
 アルトリアは戦うことを怖れない。
 だが戦が好きなわけでもない。
 だから単純に彼我の強弱を口にするカスパルに違和感を覚える。
 この国の暗闇は、あのような森深い地で育った少年にも落ちている。アルトリアも多少はこの国の事情が見えてきた。彼らの用心深い口調、態度。最初は丁寧だと思ったそれは密告を怖れて怯えているだけの見せかけだ。
「セイバー、今夜も勝ってよ!」
「はい。そのつもりです」
 カスパルの浅はかな優越感と、この国の深層心理は表裏一体のように思えて、アルトリアは唇を噛みしめる。
 規律正しく管理された上っ面の下に恐怖と疑念が渦巻いている。
 こんな国に暮らす者は幸せなのだろうか。
 アルトリアは伯林の目抜き通りを走りながら首を傾げる。活気のない停滞した雰囲気は何処へ行ってもつきまとった。こうして車を運転していてなお、心晴れる明るい気持ちにはなれないのだ。
 他人から見ると光り輝くアルトリアだが、その心の裡まで晴れやかなわけではなかった。
 不思議だ。
 私はここにいるはずのない人間だというのに、何故か、この空気に呑まれてしまう。何故なのだ。
 馬とは全く違う振動に心は躍る。
 だが心は晴れない。塞ぎこみそうになる。これが時代というものなのか。私が剣を執らざるをえなかったように、この国は鬱々とせざるをえないとでもいうのか。
「ねえ、セイバー。今夜は誰と出会うかな」
「さあ」
 そのとき、アルトリアは南に視線を走らせた。カスパルは何も感じていないようだ。
 だが彼女にははっきり解った。
 誰かが戦っている。尋常でない魔力を発し、おそらく周囲を破壊しながら。
 セイバーの気配感知能力は高くない。むしろ低いと言っていいだろう。セイバーは剣技に秀でた最優のクラス。それ故にこそ、与えられた能力スキル以外はほとんど魔力らしいものは持っていない。
 そんなセイバーに解るとは普通でない魔力の発散であり、とてつもない戦いが行われている証だった。
 こんな力を持っているとしたら、おそらくはランサー。そして相手はほぼバーサーカーと見ていいだろう。
「カスパル、座席にしがみついて。決して口を開いてはいけません」
「え?」
「今度は私にしがみつくというわけにはいきませんから。いいですか、行きますよ」
 アルトリアの右足、白いレギンスに包まれた華奢な足がブガッティのアクセルを力いっぱい踏みこむ。同時に右手と左足が素晴らしい連動でクラッチを繋ぎ、熟練のレーサーのごとき滑らかさでギアを上げていく。ハンドルをる手さばきは神速の鮮やかさ。
 車はがくがくと巨体を震わせ、14リットルのエンジンを解放した。巨体を振り回しつつ、猛烈なスピードでカイザーダムのインターチェンジを抜ける。黒い排気が車の背後に煙って伸びる。視界のない夜の道で出せるスピードではなかった。人間ならばハンドルをさばく手が追いつかないほどの速さだ。夜半の道を急ぐ車もあったが、アルトリアは一度も接触することなく走り抜ける。複雑な分岐点を擦り抜け、グリューネワルトの直線道路に入った瞬間、アクセルをさらに踏みこんだ。
 ばおんっ!!
 大地を震わせる轟音が鳴り響き、アルトリアのリボンが真後ろになびく。屋根のないカブリオレの車内で美しい金刺繍の裾がはためいて踊る。凄まじい風圧にも彼女の身体はびくともせず、むしろ危うい高揚感を湛えた顔で速度を上げる。
 カスパルは声もなく座席にしがみつき、目を閉じているしかなかった。
 彼が臆病者だというわけではない。アルトリアが叩きだすスピードが異常なのだ。彼女は戦車でも駆るように他の車をすいすいと避ける。そのたび車体の上では風が渦巻き、カスパルの耳元で亡霊の雄叫びをあげた。
 孔雀島まで半時間はかかるはずだった。
 しかしセイバーはほんの七、八分で走り通してしまった。彼女は長年、戦場にいただけあって、ちらりと見ただけの地図を完全に記憶していた。直線道路を降りるとすばやく速度を落とし、静かに走った。息をひそめるようにポツダム郊外の住宅街を抜けて、湖周辺の森に入りこむ。人目に付かない木陰の岸辺に車を止めた。
「着きました。カスパル?」
 アルトリアが隣の座席を覗きこむと目を回したようなカスパルの姿があった。彼はおそるおそる目を開いてから、車が止まっていることに気づき、今度はセイバーを睨みつけた。
 アルトリアは無言の抗議にわずかに目礼した。
「運転が手荒になって申し訳ありません。でも急がねばならない理由があるのです」
 アルトリアが湖の中程の島を手で指し示す。カスパルははっとして振り返った。森の燃えるとんでもない轟音が響いていた。島は今や火の海となり、白亜の城は炎と黒煙の向こうに揺れている。そして飛びかうサーヴァントの影。
 島には、魔力を持たない人間には一切を見ることができないように、結界が張られていた。もともとアインツベルンが自らの城を隠すために用いていたものだ。
 カスパルがぱっとアルトリアを振り返った。
「あそこに行くのっ!?」
「はい。参ります」
「どうやって」
 アルトリアが車から降りると、彼女の身体を風が取り巻く。あっというまに白銀の鎧姿に戻り、その手甲に包まれた手には見えない剣が握られていた。
「我が身は湖の乙女の加護を受けています。海、川、湖。どこであろうと渡ることができます。貴方は危険なのでここにいて下さい。動かないで。車の運転はできますか」
 彼女の問いにカスパルは首を振ることしかできなかった。
「分かりました。何か危険が迫ったら、森に逃げてください。幸い貴方はこういった場所に慣れている」
「うん。そうする」
 カスパルはうわずった声で頷いた。
 そのとき、背後で魔力を持つ者なら総毛立つほどの異様な気配が沸きあがった。


 燃えさかる炎と燃え落ちる森の木々が島中に鳴り響く轟音をあげる。悲鳴をあげたくなるような状況の中でランサーは怒り狂っていた。彼は破茶滅茶な勢いで牛を追い立てた。バーサーカーはそれでも冷静に炎の手綱をとり牛を御する。城の手前で牛を止まらせ、丘の下のランサーを睥睨する。
 ぐああああ……
 バーサーカーがあげたのは勝利の咆哮のように聞こえた。
 ランサーが槍を牛に向ける。その槍の先は不吉な赤い光を放ちながら、ぐるぐると動いている。
「そなたも同じ遊牧の民と思い、興ずるにとどめてきたが、その牛を解き放ってしまった以上、仕留めるのは僕と我が友の務め。それを野放しにすれば何が起こるか知らぬそなたではあるまい」
 槍を構えてランサーが重心を落とす。その足元から渦を巻いて風が流れる。それはみるみる炎と煙を吸いこみ、ランサーの姿を赤と黒との竜巻に変える。ランサーが地を蹴る姿を誰も見ることができなかった。
 それはまさに人間ではありえなかった。
 自然の猛威が姿を変えたかのように、竜巻と地割れが襲ってきた。

「『万能の知恵の王子』クリシュナよ! せめて祈るがいい、冥界キガルの門を開いてくれようほどになっ」
 暗雲と熱風の中から白く美しく、人智を越えた美貌が生まれでる。それこそ死の化身に他ならなかった。ランサーの槍先をバーサーカーはすんでのところで避けた。それは本来、祝福されて生まれた彼だからこそ賜りし幸運であり、決してランサーの業に緩みがあったのではなかった。
 槍が牛の背中に触れる。
 牛は吹き散らされる埃のように消え去った。
 瞬間、島を二つに裂くほどの振動が起きた。白亜の城は炎の中に崩れ落ち、めぐらされた城壁は何千年という時を経た後のように自ら壊れ、風化して消える。島の木々は一本とて立つものはなく、あれほど美しかった孔雀島は焼け果てた小島に変わっていた。
 崩れ去った城の跡に灰色のドレスを引きずる白い美女が立ち尽くしていた。彼女の胸には光り輝く小聖杯が抱かれている。
「バーサーカー! 逃げて!! その人と戦っては駄目、もういいの、もういいのよ」
 血の涙を流す美女にランサーの目がすうっと止まる。彼はわずかに槍を背にやろうとした。バーサーカーは黒煙の中でも、それを見逃ししなかった。地を蹴るのはランサーとバーサーカー、どちらが速かったのか。
「あああああ!」
 叫びをあげたのは美女であった。
 哀れなホムンクルスを刺し殺そうとしたランサーの前にバーサーカーが走り出た。あまりにもランサーが速いので、バーサーカーは体勢を整えることができなかった。薄い鎧をランサーの奇妙な槍があっさりと貫いた。
 バーサーカーの口から黒い血があふれ、生来の知的で落ち着いた顔が戻っていた。浅黒い肌に黒髪を流す、涼しげな眼差しが怒りに微笑むランサーを見つめた。
 のろのろとバーサーカーの手がランサーの槍にかかる。
「なり、ませぬ……」
 深い傷がバーサーカーの狂化の鎖を断ち切っていた。彼はとぎれとぎれに、だが上品な声でランサーに語りかけた。
「われを、殺してはなりませぬ、草原エディンの守り主エンキドゥよ。待たれよ、今、われを消しては……われの裡に潜む、悪が、目を、世に、災いの……」
「うるさい」
 ランサーが口元だけでにっと笑い、ただ槍を引く。黒々とした血がどっとあふれ出て、バーサーカーの身体が地に落ちる。
「いやああああ!!」
 ホムンクルスの絶叫が戦場に響き渡る。
「バーサーカー! 私のバーサーカー! 死んでは駄目、貴方がいなくなったら、おじいさまの呼び出した者が解き放たれる。そうなってしまったら、この世は終わり」
「次はお前だ、玩具の女」
 ランサーが倒れたバーサーカーを背中から串刺しにする。それは完全にバーサーカーを絶命させた。痙攣するバーサーカーの身体を見ずに、アインツベルンの美女が悲鳴をあげて走り出した。
 彼女に残された使命は小聖杯を守ること。
 バーサーカーを悼む暇もなく白い美女は炎の中を逃げまどわなければならなかった。
 ランサーが槍を引き抜き、ゆったりと後を追う。
 バーサーカーの魂は光の粒に変わって聖杯に戻る──はずだが、そうはならなかった。その身体の中から、それまで聖杯戦争では一度も呼び出されたことのない、また呼び出してはならない禁断の英霊が顔を出そうとしていた。
 それは炎の中で生まれた。
 黒煙と焦土、悲鳴の洗礼を受けた。
 バーサーカーであった物の中から黒い透ける物が立ち上ってきた。


 湖面をひた走るアルトリアの前で我が目を疑う光景が展開された。
 島を覆う炎の中から、黒い、そう、それは黒かった。生木を燃やす煙のように黒かった。靄のような物が立ち上る。それは島の遙か上空まで伸び上がり、それから島に向かって一直線に降下した。
 そのあと、彼女が思わず足を止め、耳を覆うほどの不吉な咆哮が轟いた。伝え聞くマンドラゴラの叫び声とは、このようなものであろうか。身の毛もよだつ、金属を引き裂くような叫びだった。
「あれは、いったい、何だ……」
 島の丘の上に黒い影が伸び上がった。
 それは三つの首を持つだった。黒い首が炎の口を開け、業火の中で火を吐いている。聖杯戦争で何が起こっても驚かないつもりのアルトリアだが、あまりにも常軌を逸している。
「あれは宝具か!? それとも異界の生物か。ただごとではない」
 アルトリアが小島の岸辺にたどりつく頃には、ランサーが面白そうに奇妙な槍を片手に竜と戯れていた。
 岸辺には焼け出されたとおぼしい孔雀が数羽、行きかっていた。熱風に煽られ、殺気立って羽ばたく孔雀の間に横たわる人影があった。ツイードの背広を着た長身の男性だ。巻きこまれて亡くなったのだろうか。立ち去りかけたアルトリアの後ろで呻き声が聞こえた。
「生きているのかっ、気をしっかり持て」
 アルトリアはごろりと男性を上向かせ、抱き起こした。男は懐かしいブリテンの顔をしていた。黒い髪に燃え焦げた枯葉をつけている。アルトリアはそっとはらってやり、胸に男を抱いて軽く揺すった。
「息があるなら答えよ、そなたは誰だ」
 男が真っ青な目を開いたとき、アルトリアはほっとした。それが誰であれ、誰かが聖杯戦争で死ぬのは真っ平御免だった。
 アルトリアは優しく男に語りかけた。
「声は出るか。私が見えるか」
 男はしばらくアルトリアを見つめていたが、震える唇を開いた。
「Your Majesty.(陛下)」
 その呼びかけが彼女の背筋に緊張を走らせた。千五百年の時を一気に巻き戻し、その肩に王権の重みと生きる糧を思い起こさせた。胸にあふれる感情を何と言えばよかったのか。絶え間ない戦場にあっても、皆がこう呼び、慕ってくれたからこそ、アーサー王が剣を置くことはなかったのだ。この生命果てるまで戦い抜こうと決められた。
 男は切れぎれの息で、眼差しで精一杯の敬意を示した。
「わたしは、祖師マーリンの流れを汲むダグラス・カーが長、ウォルデグレイヴに、ございます」
 その名にアルトリアは覚えがあった。
「そなた、ランサーのマスターか」
左様にございますイエス・マイ・マジェスティ
 ウォルデグレイヴは必死にアルトリアを見上げる。白銀の胸に抱かれていても、島を覆う熱気と煤は迫っていた。渦巻く風の中を火の点いた枯葉や小枝が飛びかう。
「陛下、わたしのサーヴァントを止めていただきたく……」
「ランサーは今、丘の上の怪物と戦っておる。あの化け物は何なのだ」
「判りません……バーサーカーの中から出てきたようでございますが、どうもおかしい。夜が明ける前に、全てを止めなくては」
 真っ青なウォルデグレイヴの瞳がアルトリアを射る。
「陛下なら、それが適いましょう。ランサーは戦いはじめると制御の利かないサーヴァント、まずはあれをお止めくださいませ。さすれば後は、監督役とわたしどもで、なんとかいたします」
 真摯に過ぎるウォルデグレイヴの眼差しは、アルトリアには痛みを伴うものだった。彼女は多くの責任を感じていた。ブリテンを混乱せしめたこと、外敵を完全に打ち払うことはできなかったこと、生前に果たせなかった多くのことを心の中から消し去ることはできなかった。
 アルトリアはそっとウォルデグレイヴを抱き支え、顔を覗いた。
「そなたは私にそなたの英霊サーヴァントを託すと申すか」
「はい」
「私はブリテンを滅びへと疾走させた愚王なるぞ。それでも尚、そなたは私を王と仰ぎ、其が忠誠を奉ると申すか」
 この言葉にウォルデグレイヴが大きく目を見開いた。
 アルトリアは知りえようもないが、二十一世紀の今になっても、イギリス人の理想の王はアーサーその人である。理想の王は誰かというアンケートは英国で定期的に行われているが、ほとんど一位はぶっちぎりでアーサー王なのだ。
 だからウォルデグレイヴにとって、彼女の言葉も思ってもみないものであり、ランサーの暴走によって息も絶え絶えとなっていても、頭を殴られたような衝撃だった。
 ウォルデグレイヴはまっすぐな視線でアルトリアを釘付けにした。
「御身こそは我らが永遠の王。陛下は愚王ではありません。ブリテンを滅ぼしてはおられません。押し寄せるザクセン人を打ち払ってくださいました。我らが誇りの源は陛下をおいて他にありません」
 目を伏せるアルトリアの白い瞼から、真珠の涙がこぼれ落ちた。それは千五百年もの間、彼女の胸の裡にだけ秘められてきた思いであり、今まで彼女自身も知ることのなかった感情だった。
 誰かに賞められたくてやったことではなかった。感謝されたいとも思っていなかった。
 全ては王たる者の務め。王たるならば全てに堪えて当たり前だと自らを律してきた。
 だが、いつも、アルトリアは忘れたことはなかった。自らの背後には剣も持たず、押し寄せる外敵に震えるだけの子供や女、年老いたものたちがいることを。自分が負ければ蹂躙されるのは罪も義務もない者たちであり、それはあってはならないことなのだと。
 歯を食いしばって剣を振るったのは、誰のためでもない、背後で自分に全てを託す民あればこそ。
「我らの夢見る『全て遠き理想郷アヴァロン』とは即ち御身」
 よろよろと手を伸ばしてウォルデグレイヴがアルトリアの涙をはらった。
「我が一族は御身が奇跡『全て遠き理想郷アヴァロン』に一歩でも、半歩でも近づくためにありました。御身のお示しになった奇跡は、この世の生きとし生ける全ての人々を救いうる希望……」
 開かれたアルトリアの瞳が濡れた緑玉の輝きでウォルデグレイヴを見つめていた。
「聖杯戦争に、来て、よかった……陛下にお会いできて、我が生涯の願いが叶いました」
 穏やかに微笑むと、ウォルデグレイヴはすうっと気を失った。アルトリアはぎょっとしてウォルデグレイヴの身体を揺する。
「しっかりせぬか。ウォルデグレイヴ! これ、目を開けぬかっ」
「揺すっちゃいけません。セイバーの英霊よ」
 背後に立つ男をアルトリアが振り仰ぐ。飴色のスーツを着た若い日本人の男──遠坂とおさか明時あきときだ。はっとする彼女の後ろでクルーザーが乗りあげるように着岸した。高いクルーザーの手摺りを越えて、ひらりと神父服の言峰ことみね璃正りせいが降りてくる。
 明時がにっこりと微笑んでアルトリアを覗く。
「先輩は回復機能が高い。あの通りランサーが暴れ回っているので意識を保てないだけです。死んだわけではありませんから」
「だが」
 アルトリアはウォルデグレイヴを抱いて動こうとしない。すると璃正が歩み寄って膝をついた。
「いったん、ミスタ・ダグラス・カーの身柄は我々が預かります。監督役として約束します。渡していただけますか」
 アルトリアがじっと璃正を見つめた。璃正は思わず緊張する。英霊サーヴァントにまじまじと見つめられたのは初めてだ。セイバーの曇りのないまなこは流石、騎士王と謳われ、歴史に名を留めた人物だと驚嘆させられる清冽さだった。量られていると分かっていたので目を逸らしたりはしなかった。
 するとアルトリアは腕の中のウォルデグレイヴに頭を垂れた。
「感謝しよう、懐かしき我が民よ。そなたの御蔭で心の雲が晴れたわ」
 そして彼女はそっと岸にウォルデグレイヴを横たえ、剣を執った。
「そなたたちに聞く。あのランサーと戦っている化け物は何だ」
「それは私が答えます。監督役、遠坂明時、貴方たちも知らねばならないことがあります」
 背後の焦げた木立から、灰色のドレスを引きずってホムンクルスの美女が現れた。アルトリアが目を見開く。それは昨夜の彼女からは想像もつかない姿だった。頬には血の伝ったあとがあり、薄汚れ、彼女はぼろぼろだった。だが、その胸には金色こんじきに輝く小聖杯が抱かれている。
 明時と璃正も目が離せない。
 アルトリアと璃正が立ち上がると、彼女はそっと歩み寄ってきた。
「あれは復讐者アヴェンジャー。大おじいさまが呼び出した第七のサーヴァント」
「アヴェンジャー!?」
 誰よりも驚いたの明時だった。
「アハト翁はいったい何を……聖杯が呼び出す英霊は七つのクラスに限定しているはず。おかしな英霊は呼び出せないはずですよ」
 初めて聖杯が造られたとき、三人の魔術師は聖杯の危険性も十分に理解していた。聖杯を起動するための贄である英霊サーヴァントがあまりにも危険な存在の場合、こちらの世界が壊されかねないため、呼び出せる英霊は英雄豪傑に限られ、危険な悪行を重ねた者は呼び出せないようになっていた。
 英霊の座に招かれる者は善行を行った者に限定されていたはず。
 明時の言葉にホムンクルスの美女は力なく頷いた。
「ええ。遠坂永人が造ったシステムは完璧でした。英霊の座から悪霊を呼び出すことはできません」
「でも、あれは宝具でも英霊でもない」
 明時が指したのは丘の上で蠢く化け物。ランサーが面白半分に戦っているので足止めされているが、それがなければ何をするかも予測できない。
「曾御祖父様が造った根幹のシステムは魔法に近いもの。そう簡単に逸脱できるはずが」
「できたのです。一つだけ方法があることに、大おじいさまが気づかれてしまったのです」
 灰色の美女が毅然と顔を上げる。彼女の顔は無表情なホムンクルスではなくなっていた。バーサーカーの血を浴び、悼みに引き裂かれた胸からは、悲しみしか浮かんでこない。彼女は超然とした美女ではなく、いくさに傷つき、うちひしがれた一人の娘の顔をしていた。
「どんな悪霊であっても、善き英霊の裡に閉じこめれば●●●●●●●●●●●●●、聖杯を騙すことができたのです」
「!」
 明時、璃正の顔に衝撃が走る。
「おじいさまは前回の失敗を踏まえ、呼び出した英霊が倒されても、その中から再び別の英霊が現れるように仕向けました。そうすればアインツベルンは二体の英霊を保持することができる。しかし大おじいさまが考えるほど安易なことではなかったようです」
 灰色の美女が囁くように告知する。
「あれは遙かなる過去の悪霊……この世全ての悪アンリ・マユ
 アルトリアが嘆息し、がっくりと剣を立てて俯いた。
 それが聖杯の崩壊の始まりだった。

Fate/Revenge 11. この世全ての悪-①に続く


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