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それを愛と呼んでしまおう

この夏、チケットを持っていた2つのフェス、「ROCK IN JAPAN FES.2021」と「SWEET LOVE SHOWER 2021」が中止になってしまった。そして、参戦を断念した2つのフェス、「音楽と髭達 2021-夏の約束-」と「RYTHMTERMINAL~Arch of THE MUSIC~」 が開催された。
正直な話、率直に言って、日本の現状をどう思う? 悲しくて悔しくて行ける方が羨ましくて、無事に開催されるかどうかの願いやら不安やら心配やら、いろいろな気持ちが行ったり来たりして、やや下り多めなエヴリデイでした。

でも、そんなちっぽけで醜い感情は、ものすごい勢いでどこかに流されて、嬉しさと祝福が押し寄せてきた。Twitter でレポを読むと、観客の前で歌える喜びを全身で爆発させて、圧倒するパフォーマンスで燦然と光り輝いていた様子が伝わってきて、…そして同時にとても驚いた。自分が参戦していない(したくてもできなかった)ライブなのに、その感想を読むだけでこんなにも感動をもらえるということに。
こういうところが我らが推しの素晴らしさであり、それがいわゆる通常運転と呼ばれる状態であることも、すこぶる愛くるしい。さらに言えば、そんな推しだから、その元に集う沼人たちも素敵な同胞なのです。


音髭と RYTHEMTERMINAL のセットリストは、ここまでのソロ活動のエッセンスが凝縮された選曲。ほぼ同じセトリだった5月の JAPAN JAM を思い出しながら、改めて強く感じた。
これが、今、この瞬間に歌いたい歌なのだろう、と。

一昨年のリキッドルームでのバースデーライブ。
ドキュメンタリーDVDに収録されているインタビューで選曲について語っている。

やりたい曲をやろ…やりたくなってきて、最初 “悲しみの果て” とか “笑顔の未来へ” とか、いっぱい入れてたの。やっぱみんな最初、そういう曲を聴きたいかなと思って。したらね、全然、こう、気が乗らなくて。どんどんどんどん減らしてって。
したらその、意外や意外、“ファイティングマン” とか、昔自分が、“待つ男” とか弾き語りで作った曲がすごく温度が高かったの。だからすごくわがままで、自分が、そう、すごく自分が、こう、まずそこを見てもらいたい。混沌としてるけど、同じぐらい新曲と同じくらい、古い曲にも同じくらいの思いが、強い思いで歌えるものが結果的に選ばれてるっていうか。すごい自慢です。
あと一番新しい歌も、例えば “冬の花” や “解き放て、我らが新時代” もすごいちゃんと熱いまま歌えてるし、“ファイティングマン” も同じくらい熱い気持ちで歌えてて、ああ…!って。
『宮本、独歩。』初回限定612バースデーライブatリキッドルーム盤


つまり、古いとか新しいとか売れたとかに関係なく、その瞬間に熱い思いで歌える曲でセトリが組まれるのだ。

3回のバースデーライブ、その合間の新春、野音。
どれをとっても、その時その時のリアルな心情で選ばれた曲が、考え尽くされた順番で披露されたのだということが、強烈な実感を伴って迫ってくる。キャリアを武器にしつつも新人として謙虚なスタンスで臨み続け、ジャンルを越えて愛と祝福をまき散らし、ホームタウンに帰ってきて懐かしい自部屋に籠もるかのように、晩秋の、何もなき、月の一夜に現在地を確認する。
じっくりと考えて練り上げられたセットリスト。


そう考えると、歌われない曲についても自分なりに納得がいく。
例えば、『宮本、独歩。』収録の “旅に出ようぜbaby”。
明るくてノリが良くて、前向きになれるパワーソングは好きな人も多い。さぞかし盛り上がるだろうこの曲がコンサートで歌われないのは、もう「旅に出ようぜ!ベイベー!」じゃないから。旅立ちの時は過ぎ、旅はすでに始まっていて、今まさに、渦中にいるから。

そして、ファンの心をざわつかせる曲 “それを愛と呼ぶとしよう”。
恋愛の火照りや恍惚、失恋の悲哀なんぞをあからさまには歌にしない宮本にしてはめずらしいラブソング。その生々しさに、ファンの間で思い出したように話題にのぼる。(というか、アルバムに収録されていないため、その存在を知り、聴いてみて衝撃を受ける人が後を絶たない。)アルバム未収録であることに加え、コンサートでほとんど歌われたことすらないのは、その思い出を大事にしたいからなのではないか、と。
私はそうは思わない。
この歌はすごく「頑張って作った感じ」がする。
歌詞の文章の組み立て方がいつになく技巧的だし、でありながら論理矛盾っぽく感じられる部分もあるし、メロディーラインに歌詞が乗った時の歯切れが「らしくない」し、的確な言葉で情景や感情を端的に切り取ってみせるいつもの「鋭利さ」がないように思う。そんな中でも、感情に名前を付けて定義づけした顛末をタイトルにするのは宮本節全開なのだが。
要するに、「巷で流行るようなラブソングを俺だって作れるんだぜ!」という気持ちで作詞作曲に臨んだような印象を受けるのだ。

この曲は、もう歌われなくていいのだ。今この時に、歌うことにリアリティがあるか、歌いたいかどうかでコンサートの曲は選ばれている。歌ができあがった時点で美しい思い出として昇華し、それによって成仏できているこの曲は、もう歌う必要がないのだ。

そうなると、一周まわって、“悲しみの果て” や “今宵の月のように” が冒頭のフェスやソロコンサートで歌われた意味が、重みを増してくる。
代表するヒット曲であり、愛着もあり、ソロからの新規ファンにエレファントカシマシというバンドを紹介する意味もあり、なおかつ、今この瞬間もなお、変わらないリアリティをもって(異なるバンドメンバーの演奏であってさえも)歌える歌、ということなのだろう。


彼が、今、歌いたいのは、大きな大きな《愛》なのだと思う。
“夜明けのうた” では ‘会いにゆこう わたしの好きな人に’、“PS. I love you” では ‘I love you’、‘愛してる’ と美メロにのせて繰り返し歌い上げる。ストレートなその文言に、これは誰に向けているのだろうか、と心にさざ波が立ったことは否めない。でも、JAPAN JAM のステージを見て一蹴された。具体的な特定の人に向けた曲だとしたら、こんなふうには歌えるはずがないと感じたから。会場の隅から隅まで順番に指を差し、両手をいっぱいに広げて、渾身の歌唱で届けてくれようとしている《何か》を聴衆はたしかに受け取った。
“PS. I love you” はドラマの主題歌だから、ヒロインに捧げられているのかもしれない。でも、そのヒロインはあなたでもあり私でもある。そう感じさせてくれる普遍性こそが、ソングライター宮本浩次の醍醐味。
“Fight! Fight! Fight! ” でシャウトされる ‘愛してるぜ’ も、そこで歌われている《愛》とは、“Easy Go” で ‘届けるぜ’ と歌ってくれる《この世界中のあらゆる輝き》のことなのだと思う。あるいは、それを届けたいと思う気持ちそのものかもしれない。

バカらしくも愛しきこの世界を、歩いていくための、人生へのラブソング。
夢に夢みて夢から夢を抱きしめて。
明日もまた、夢を追いかけ続けようと思えるから生きていける、その希望が萎えてしまうくらいなら、夢は叶わないままでもいいのかもしれない。
明日も生きて行こう、と思わせてくれるその原動力を《愛》と呼びたい。

愛だけを信じて、
この道の先で、
あこがれの明日を取り戻せ。


来月に始まる全47都道府県ツアー。たとえ参戦できなくても、参戦した同胞さんたちは、彼から受け取った《愛》をおすそ分けしてくれるだろう。きっと、そうせずにはいられないはず。それほどまでに広がっていく大きな大きな《愛》だから。

(いや、それはそうなんだけど、でも!できうる限りこの身でも受け取りたいから、…チケット当たってくれ!!!)



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