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新春ライブ2022参戦記

まだ夢心地。というか、夢だったのかもしれない…っていう感覚から抜けられない。あの客電のせいだ。いきなりバン!っつって暗くなって異世界に放り込まれ、いきなりパァーっと明るくなって現実に連れ戻される。まるで白昼夢だったんじゃないか(夜だったけど)と茫然としたまま一夜が明けた。

…というその勢いで書きます。


どんなセットリストが組まれるか、本当に楽しみだった。いつだって、古いとか新しいとか売れたとかに関係なく、その瞬間に熱い思いで歌える曲で構成されるから。つまり、その時のミヤジの心情が表れるから。
ワクワクしすぎて数日前から胃腸がおかしくなり、昨日は朝から心臓が不整脈みたいにトクトクして、武道館に着いた時には全身が震えていた(寒かったし)。

リハの音が聞こえる。こんなに音漏れするのか。

……え、この曲やるの?

この美メロは “風”、そしてこのイントロは “奴隷天国”
この2曲だけで、いったいどれだけの振り幅なんだろうかとゾクゾクする。
まさかの “シグナル” が聞こえた瞬間はフリーズしました。

いざライブが始まると、初っ端から度肝を抜かれまくり。エピック期の曲が続く。激渋。新春は野音とは違って、ファンと共に新年を寿ぎ、新しい季節へキミと笑顔の未来へかけだす男!っていう選曲だと思っていたのだけど、去年野音がなかった分、この新春に野音風味を入れてきたのか?(新参者ファンの私でも新春と野音の傾向の違いがわかるのは、過去のライブが円盤化されているからです。昨日の歴史に残る素晴らしいライブも円盤化されるのを首を長くして待っています!)

と言いつつも、そこは「今この瞬間だからこその選曲と曲順」が散りばめられていた。印象に残っているワタクシ的ツボの断片を。

“生命賛歌”
ステージの中央、円形のスポットライトに照射されて煌々と浮かび上がる男椅子。ひれ伏したくなるような神々しさ。私の角度からだと、ミヤジはその光の円の中に入らないように円周ギリギリで踊っているように見えた。まわり恐る恐る辿ってまわってまわってオドッテいた。
真ん中で地がすりを持ち上げたらステージの端まで捲れ上がって、虚空が見えた。オマエは正しく、ウチュウ。

“風に吹かれて”
縦横無尽ツアーでも歌われているこの曲、アウトロのスネアロールはやっぱ無骨で力強いトミの音が好き。

“桜の花、舞い上がる道を”
この曲で拳を高く突き上げるなんて新鮮。やるならばウェーブのイメージだったから。でも、これがエレカシなりの新春を祝う心意気なのか、と感慨に浸っていると、突き上げたその拳がそのまま “ガストロンジャー” へ!
いや~、この流れは痺れました。これぞ圧巻の振り幅よ。

ミヤジがエレキを構えて弾き始めたのは大好きな “so many people” のイントロ!…と喜んだのも束の間、メンバー紹介へ。これもすこぶるヤバかった。メンバー紹介からの “友達がいるのさ” が。
この曲、これまでは友達に会いに街へ行くんだと思っていたけれど、聴こえ方が変わってきた。友達が、地元で待っててくれるあいつらがいるから、どこへだって出かけて行ける。ソロ次を見ているとそんなふうに聴こえるようになった。

そして、アンコールの “待つ男” が終わると、マイクを置いて挨拶もせずに颯爽と去っていった。最高。


本当にかっこよかった。

音量を上げろだの下げろだののジェスチャー、真後ろを向いて地団駄を踏みながらテンポを指示したり、撮影のカメラを手で追い払うだけじゃなく足蹴にしたり、そういう姿を見ると、ああやっぱこの王様感、周りを支配してグルーヴを起こし、それを会場全体に伝播させて巨大なうねりに巻き込んでしまうこの圧倒的な存在感…これが麻薬のような説得力で魅了するんだ、と実感した。

かつて3000席限定で開催された会場。それが今や、360度全方位を観客が埋め尽くしている。その光景を見上げたミヤジが、恍惚としているように見えた一瞬があって胸が熱くなった。新しいファンに知ってもらいたくて昔の曲を演奏し、キャッチーになった近年の曲も演奏し、…その振り幅に圧倒される。
それがこのバンドの醍醐味。
作られた時期こそ違えども、歌われている心情は不変にして普遍。
だからいつだって作ったその時と同じ気持ちで堂々と歌えるんだ。
ヒット曲もある。だが、最大のヒット曲である “今宵の月のように” は歌われなかった。驚いたけれど、過去の栄光に浸ったり、その曲にすがったりしない、進化も劣化もせずに、ただただそこには同じ気持ちで歌える歌が在る、それだけでいいという強い矜持を感じた。もしかするとカーテンコールがなかったのは、感極まった泣き笑いを見せるのが憚られて、こらえていたからかもしれない。なんてな。

今回のセットリストは、いわば神セトリ。ソロ次の考える「かっこつけてるエレ次のかっこよさ」満載だった。

そして例によって「こんな状況だから」とか「音楽の力で」とか《コロナのちまた》にはまったく触れない。でも、言わなくても伝わる。

選ばれていた昔の曲は、特長でもある自分に深く潜っていく内省的な歌ではなくて、「どんな状況にあっても太陽が昇ったら明日が来るんだから生きて行こうぜ」っていう希望の歌ばかりだったからだ。それも、新春でありながら野音っぽい曲で。“いつもの顔で” じゃなくて “いつものとおり”“今はここが真ん中さ!” じゃなくて “この世は最高!”。(言ってることわかります…?)

ソロ次を見ていて、ソロもバンドもなくてここにいるのは宮本浩次だ…と思った。見るたびにその思いが強くなった。
でも昨日、目の前にいたのは、紛れもなくエレファントカシマシの宮本だった。立ち姿が違う。歩き方からして違う。
私はいつもは双眼鏡は持って行かない。音を浴びたくて、一挙一動を見逃したくなくて、双眼鏡は使わないから。でも、なぜか昨日は持って行った。

そして覗いたら…、若次がいた。

ということは、エレ次とは若次なのか?

ソロ次の中にはエレ次がいる。若次がいる。
でもその逆はない。

エレ次はずっと「こうあるべき」を追求してきた。その呪縛から解放されて幸福感に満たされているソロ次、今回のライブは、そのソロ次から見た「エレ次たるものこうあるべき」な姿だった。
ソロ次が縦横無尽の公演回数を重ねて進化すればするほど、エレ次もまた純度を増す。
メビウスの輪の到達点にして通過点。

本当にかっこよかった。
そりゃそうだよ、かっこよくありたくてかっこつけてるのがエレ次なんだから、かっこいいに決まってる。

そして神セトリではなくて、時空を自由に行き来する妖精が作った、妖精セトリだった。




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