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"ガストロンジャー" は嘆きの歌

社会に対する怒りをぶつけアジっている歌、という印象がある。勢いのあるちょっと乱暴な言葉遣い、政治的な意味合いのある単語も出てくるからだろうか。だが、歌詞をよく読んで内容をよく聴いてみると、まったくそんなことはない。

 俺はこれは憂うべき状況とは全然考えないけれども、
 かといって素晴らしいとは絶対思わねえな俺は。
 (だから俺は俺に聞いた。己の現状を俺に聞いた。)
 翻って己自身の現況を鑑みるに、
 これはやっぱり良いとも悪いとも言えねえなあ俺の場合は、君はどうだ?
 俺はこれは憂うべき状況とは思っていないけれども、
 ならばこれが良いのかと問われれば
 まあまあだと答えざるをえないのがおおいに不本意だ。

とほぼ即興で訴えてくる。どこかでご本人も仰っていたように、要するに何も言ってない。結論は、「だから胸を張って出かけようぜ」。
この楽曲は「先端的で根本的であるが故に」「潜在的な革命性」が「現在の多くの日本人が臨む方向性とは、ずれていたのかもしれない。」(『東京の空』より)という述懐の通り、今になってようやく時代が追いついてきた感がある。
そして今においてもなお、「先端的で根本的であるが故に」普遍的であるから、どんな時代でも響くのだ。

あの中には、微塵も破綻など無い。むしろある世代以下の人々が、共通に感じ得る現状に対する認識が、素直に、ロックミュージックの形式に昇華された形で表明されているに過ぎないのだ。
 まあ、思った程売れなかったのは仕方が無い。いかに ”ガストロンジャー” が、ロックをはじめ、あらゆる先端的な表現者が、表現しようと躍起になっている、しかもなかなか表現し得ないところの ”生命そのものが内包する、死んでも解決できない絶対的矛盾” を、自覚的かつ根本的に問うている作品、しかもそれをあっさり達成してしまっている、画期的な作品であることを、制作者自身が声高に叫んだところがカッコ悪いだけだろうと。
(「この夏の精力的な活動のわけ」『東京の空』より)

鎖国してもいいくらいだ、と若き宮本は発言しているけれど、その真意にはイデオロギー的な意味はまったくなくて、外への門戸を閉ざした世界の中で人々がそれぞれの生活を懸命に生きることで、独自の文化が花開いた素晴らしさを讃えているのだろう。
「敗戦に象徴される黒船以降の欧米に対する鬱屈したコンプレックス」と断じるうわべだけを模した西洋文明への懐疑と、その反動で拠り所とする江戸の文明と文化への憧憬。
(話が逸れるが、ここには永井荷風との共鳴があるような気がする。他にも、人生半ば過ぎてからの女唄、散歩、絵日記、甘党という要素も共振しているかもしれない。)

”ガストロンジャー” は、この鎖国の時期の日本と、高度経済成長期にも共通している時代の熱量みたいなもの、それが現代において希薄になったことを嘆いている歌なのではないかと思うのだ。

もっと力強い生活をこの手に!


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