行かば、道は開けん 現在地について23
この歌が頭の中で鳴り響いていたのは、このところの強い風のせいだけだろうか。
新年度を迎えるにあたって原点を再確認したい今の心境にしっくりくる。 長い沈黙から唐突に始まってシャッキリさせられるのも、“心の生贄” というタイトルからは予想できない明朗快活さも大好きだ。まさに隠れた名曲。(アルバム『俺の道』のラストにシークレットトラックとして収録されています。)
このひとは、今、何を求めているんだろう?
ここから、どこを目指して行くんだろう?
そんな問いを笑い飛ばすようなお知らせに胸が高鳴った。
限りある人生、やりたいことをやってほしい。悔いのないように。
今にして思えば、2023年の『ロマンスの夜』はなかなかに〈縦横無尽〉だった。リリース文章からは「カヴァー曲を中心とした」という文言が消え、《バンド》《ソロ》《カバー》の名曲を織り交ぜた、まさに現在地を標榜する内容だった。
このひとを追っていると、モヤモヤはつきものだ。《バンド》コンサートの後などは特に。
受けとめきれないほどの感動をもらって茫然とする頭に、(この爽快感!…ということは、あの歌はもうやらないのかな、あの歌も…)という心の声が、圧倒してくる感慨とは別のどこかから湧いては消える。いやまあ、そりゃあやりたいことをやりたいように思う存分やってほしいとはいつでも思ってるし、そんなこたあおめえに言われなくたってやりたいようにやるに決まってんだから、期待と現実の狭間でモヤモヤが発生するのは自然なことだし、期待値など足蹴をくらってこそ通常運転なのは言うまでもないのは百も承知。
そして、そんな気持ちが片付かないまま、楽しそうに嬉しそうに幸せそうに歌う『ロマンスの夜』を目の当たりにすると、こんなモヤモヤなんてどうでもいい!どうかやりたいことをやってくれ…!という思いが溢れるから厄介。いや、厄介でもなんでもなくて、それがこの沼の醍醐味でもあるわけだが。
《ソロ》によって沼の深淵さが増長されたことは間違いない。
どこまでも伸びる歌声が、ブレも狂いもないピッチを従えて、寸分の隙もなく制御された姿から発出される美しき多面体、この別格のイキモノに魅せられてどうすることもできない。と同時に、筆者にとって欠くべからざる要素はその歌声に乗っている中身であり、綴られる歌詞であり、彼の歌詞世界だったりする。
となると、やはり、俺が俺のために作った俺の歌が聴きたいと思ってしまうわけである。
俗世に身を置いているものの、修道僧のような求道。その懊悩に、自ら決着をつけて訣別した過去の紆余曲折。このプロセスを歩き続ける道筋そのものが、尽きることのない魅力。《カバー》に対して、そこはかとない違和感があったのは、本来排除されるべき不要な概念(と私が思いたい要素)が混入してくる感覚があったからかもしれない。
だが、彼の《カバー》は、とどまることを知らない無限の完成度。つまり、完成することはない。時代や性別なんてものは軽々と飛び越えて、歌い手として感じたリアリティーを稀代の銘器を駆使して響かせる。ここで現出する《バンドマンとしての宮本》との軋み、ギャップ。これらもまた、新たに手にした武器であることは間違いないだろう。
このひとを作っているもの。
思想的には、
・明治の文豪、論語の教え、カクカクしたもの。
音楽的には、
・ビートルズ、ストーンズ、レッチリ、その他、憧れの王道ロック。
・そして合唱団で歌ったうた、お母さんが歌っていたうた、大好きな歌謡曲。
これらを基盤にして、新しい道具を手にすることで新たなフェーズへと進化を遂げる。
そう、このひとの転換点は〈道具〉を手にすることで起こっている。
・打ち込みが可能になったことで、バンドの音の追求をひとりでやってしまう。
・作業場の音源をそのままミキシングに使えるようになったことで、カバーアルバムが出来上がってしまう。
火鉢からストーブに変わり、徒歩や自転車から車に変わった生活における革命が、音楽においても何回か起こっているのだ。
頭の中にある音を実現するために〈道具〉すなわち〈機械〉を使うことはあるだろう。そうすることによって、頭の中のその音を的確に具現化できる、あるいは近づくことができるのならば、使わない手はない。
宮本が好む陶芸家・濱田庄司。
「日本全国縦横無尽」パンフレットのインタビューの中で濱田の言葉が引かれているが、その濱田の親友に河井寛次郎という陶芸家がいる。濱田好きの宮本が知らないはずはないだろう。思想的にも河井の影響を受けているのではないかと思われる節もある。
河井曰く「機械は存在しない/機械は新しい肉体」。
人間がやりたいことを実現するための技術として発展していくのが機械であり、生物の進化と本質的には同じものだと河井は説く。芸術創作活動の表現方法において機械を使うことは、肉体の延長なのだ。
伝えるために機械を使うのはいい。頭の中で鳴っている音を具現化するためには、実際の演奏者である3人に伝えなければならないから。そのための音=いわゆるデモ音源を作る方法として〈機械〉という〈道具〉を使うのはいい。
でも、その音を実現して奏でるためには、〈機械〉ではなく〈肉体〉を使ってほしいと思う。3人の生身の肉体を。
このひとが求めるのは、栄華であり、金であり、ひとりではできない成功へ、友と共に至ること。それを、友と築き上げてきたものを足掛かりにして、ひとりで達成しようとしているかのように見えてしまったのも、モヤモヤの大きな要因だったのだろうと思う。事ここに至っては、結果的に足掛かりにされていたのは◯ミューズさんだったのかもしれないが、お知らせに「契約を満了」とあるからにはもともと5年契約だったのだろうか。いずれにしても、彼の言動は表層だけではわからない深層がある。それを策略としてではなく、おのれの肌感覚のみを羅針盤に、凡人には計り知れない長い時間のスパンとストライドでやってのけてしまうところが、このひとの天才にして人たらしたる所以でもある。
前述の河井の言葉には続きがある。
「機械は存在しない/機械は新しい肉体 美を追わない仕事/仕事の後から追ってくる美 ひとりの仕事でありながら/ひとりの仕事でない仕事」(『いのちの窓』より)。
仕事(宮本の場合は〈労働〉と言い換えてもいい)において、ひとりじゃできないことを成し遂げるために、勝負するための手段として我が身以外に、どんな道具を選び、どんな武器を使うか。
それが、夢と勇気と、そして友情であってほしいと、そう思うのだ。
だって、ひとりで演る “珍奇男” は、切なく寂しい。
以前にも書いたが、「エレファントカシマシでやる」ではなく、「エレファントカシマシをやる」と言及していたことが印象に深く残っている。
細やかな感情の機微を敏感に察知して、的確な言葉を選べるこのひとのことだ。「で」と「を」はたしかに使い分けられているはず。このひとにとって、《バンド》は「を=行為」であって、「で=形態・場」ではないのだ。ファンの心境としては、彼の言葉とは逆に「エレファントカシマシをやる」のではなくて、「エレファントカシマシでやってほしい」と思ってしまっていたのかもしれない。
このひとは、今、何を求めているのだろう?
ここから、どこを目指して行くのだろう?
という冒頭の問いをこねくり回し、《バンド》と、《ソロ》と、《カバー》と、これらの境界をなくすことを目指しているのかもしれない、それが彼の今やりたいことなのかもしれない…、『my room』を経て『ロマンスの夜』に至って、そんな解釈がかたちを結ぶ。この明確な齟齬が、またひとつ消えないモヤモヤの要因でもあったかもしれない。
「30周年が終わったらソロをやる」と宣言していたと聞くが、「35周年が終わったら独立する」のも計画されていたのだろうか。「がんばろうぜ」と言えるまで25年、「生きる それが答えさ」と歌えるまでそこからさらに10年。
人の歴史。
それらはすべて、長い歴史の連なりの上に積み重ねられたもの。
ならば、歴史の末裔たるぼくらは、何を積み上げていけばいいのか。
帰る故郷もなく、今いる場所に根を下ろすしかない浮き草感覚を常に抱え、ゆえに、目の前にあるたしかな存在を凝視する。
メシ、水、風、空、木々、街、人、俺。
“悪魔メフィスト” で点呼されるものたち。
幾世代にも亘る長い人の歴史のそのまた果ての傷だらけの夜明けに、春の風が押し上げる新しい舞台で、彼が自分のために作って自分のために歌う歌を、おのれの肉体の延長である仲間と奏でる音で聴きたいー。
35thツアーで感じたひと区切りつけて次のフェーズへ向かう予感。野音2023の “はじまりは今” の涙は4人で青春をやり直す誓いだったのか。『ロマンスの夜』の縦横無尽な融合。“yes. I. do“ で到達した答えと、青空と同化するほどに解き放たれたこころがうたう “No more cry” の爽快さ。
すべてが回収されていく。
いや、“四月の風”、“明日に向かって走れ”、“ココロのままに”、“旅の途中”、“俺の道”、“桜の花、舞い上がる道を”、“シナリオどおり”、“永遠の旅人”、“明日を行け”、“旅”、“風と共に”、“夢を追う旅人”、“旅立ちの朝” …。。。
いろいろな歌が脳内をかけめぐる。
あらゆる歌、そのどれもが当てはまる。
すべてが、俺が俺のために作った俺の歌だから。
凱旋の雄叫びを上げる場所を間違えるようなひとではないことは、36年の月日が知っている。
隅田川のキラキラを見下ろすのは、その流れが穿つ武蔵野台地から。
独立しての新しい旅立ちに、心からの祝福と絶大な期待を贈ります。
エレファント4、elephants の未来に幸多かれ。
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