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新しい季節の始まり 現在地について8

新しい季節の始まりは
夏の風 町に吹くのさ

“今宵の月のように”



前回のnoteの締めと同じ引用だけど、やっぱりこれしかなくて。
聴けば聴くほど名曲。
今回のツアーでは、この歌が内包していたとんでもないポテンシャルを見せつけられた。

歌の数だけ歌声がある、いや音符の数だけ、いやそれ以上の数の歌声を、超絶技巧を変幻自在に操って、世界屈指の歌い手がその代表曲と言っていいこの曲を、51回ものステージで進化を遂げながら歌ったのだ。
手の内にある歌声の中でとっておきの美声を響かせるでもなく、ロックとして攻めるでもなく、おそらくはテクニックを駆使した歌唱なのだろうけれどもそれを気取らせず、見せつけることも陶酔することもない、ただただ清澄な力強さ。
カバーを歌ってから自分の歌も丁寧に歌うようになったと仰っていたけれど、気張らず気負わず淡々とナチュラルでそれはそれは美しかった。あまりの瑞々しさに、あのモノクロームのMVの真っ直ぐな視線から、ガサつきと伸びやかさが絶妙に共存するあの聴き慣れた歌声が響いてきたかのような錯覚。だが、目の前にいるのはたしかに今現在の宮本浩次だった。

そして「もう二度と戻らない日々を俺たちは走り続ける」と歌うわけですよ。
そりゃあ時空も錯綜します。。。



縦横無尽ツアーとは何だったのか。
日本全国縦横無尽、そして縦横無尽完結編が終わって、喪失感や虚脱感、いわゆるロスになるかと思っていたけれど、ならなかった。
その理由をあらためて考えている。

理由のひとつは、達成感と充実感が漲っていたから。
ソロ活動は、バンド30周年を終えて熟した機と、今やらなければという焦燥する機が合致したタイミングでの《やりたかったことの実現》であり、同時に《可能性の追求》が表のテーマだったのだろうと思う。
それはものの見事に果たされ、素晴らしいバンドメンバーが起こす化学反応が宮本浩次を《結晶》させて磨き上げた。長いツアーの過程で俄然輝きを増し、完結編に至って何ら燃焼し切ることなく輝きは極限に達した。
いや、まだまだだ。この後もっともっと輝くだろう。
そう感じさせてくれるから、ロスなどあろうはずがない。

(そういえば《可能性の追求》について書いていた。)



そしてもうひとつの理由は、《愛》って何だかわかったから。
徐々に見えてきた裏のテーマ《愛の発見》。
今日もまた、明日もまた、探し歩いてきたもの。

(これについては、こちらで書いた。)


たしかにあった。
彼が好むと好まざるにかかわらず。
己れの作る音楽への、
全国の観客、聴衆から彼への、
バンドメンバーから彼と彼の音楽への、《愛》。
この相互ベクトルのうねりがものすごい波動となって日本全国を駆け抜け、完結編の会場に集結した。自信と技術に裏付けられた輪郭を得て可視化されたエネルギーがそこにあった。

ここにひとつ付け加えたい。

宮本浩次の、エレファントカシマシに対する《愛》。

これが新たなフェーズに入ったことがインタビューから感じられた。
離れてみることで見つけた、愛着とは違う、今までと違う愛。



ツアー前半、『エレファントカシマシ新春ライブ2022』後のインタビューで

エレファントカシマシは、もっと自由で、青春の実験場所であるべきだし、宮本浩次は、音楽の実験場所であって、エンターテインメントの実験場所であるべきなんだと思う。

「ロッキング・オン・ジャパン」vol.543/2022年3月号

と述懐しているが、実験とは、試行錯誤であり真実の追求であり、仮説を証明するために行われるもの。その仮説が正しいか否かではなくて、そもそも実験はまだ途上だ。結論は出ない、いやむしろ出さない。「結論した」というのは「戦い続ける」ってことを結論したのであって。

(「実験」ではなく「実験場所」と表現しているのには意味があると思っている。こちらでその一端に触れている。)


結論は出ないのだから、実験はまだまだ続く。それぞれの実験場所で。
この《結晶》は、次なる化学反応でますます磨き上げられる。

今回のインタビューでは、“今宵の月のように” が新春ライブで歌われなかった理由も明かされていた。やっぱりとても大切な歌なんだ。それを改めて感じることができて嬉しかった。

自由に羽ばたいてキラキラの光と幸を纏って愛を投げてくれる姿も好き。ぶざまな自我を引きずって、傷つきそれでも立ち上がって戦いを挑み続ける姿もやはり好き。
ソロ次のおかげでエレ次の沼がより深くなった。ねじれて繋がるメビウスの輪。

ソロ活動で解放することができた《可能性の追求》。
それが想像をはるかに超えた長い期間にわたって抱えられたままだったこと、そしてそんなにも長いあいだ抑えたまま持ち続けていられた強靭さに改めて天才性を感じるのだが、

(これについては、こちらで書いた。)


バンドという一国一城を背負うことの責任と自己実現の相剋を抱えていながら、両輪を成功させた高潔な意志は、どこか鷗外の歴史小説の主人公を彷彿とさせる。

あの同級生3人は、それを受けて立つでもなく包み込むでもなく、ただそこにいるだけで、歌係の生きる場所を成立させることができる。

と同時に、これほどのひとの帰るべき場所として相応しくあるべく、そして自然に傍らにいること自体、各々がたいへんな覚悟と気概と矜持を持っているのだろう。それが、音楽ではないもので繋がる組んず解れつの絆なのだ。

つまるところ、ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
変わるものと変わらないもの。

マイクを投げつけることのできる関係。

「あなたの力が必要です!
 ドラムはあなたしかいない!
 歌の人、僕しかいない!」

バンドのためにソロをやる…という言葉にはあまりに多くの意味が含まれているし、来し方の分析や行く末のヴィジョンを、凡人の物差しでは到底、測りきれない時間軸スパーンと驚くべき鮮やかさでクレバーに語ってみせることにいつも度肝を抜かれまくるのだが、「自分のバンド」に対してこれまでと違う愛を持てたことに気づいておられるだろうか。


語る言葉の中に答えがある。
そして、いつの時代のいかなる状況にあっても生き方と歌がリンクしている。それぞれのベクトルが《生きること=歌うこと》であるがゆえに、時空を超えて常にブレない。その発露としての歌。
歌詞の中にも答えはある。
だから私は歌詞の読み解きをしたいんだな、そんなことを思った。


やっぱり新たな胎動は始まっていた。
いや、始まっていたんじゃない、いつも動いていたんだ。
ずっと胎動していたんだ。
止まっていた瞬間なんてない。

このまま行くとまた、止まんないんだよ。

「ロッキング・オン・ジャパン」vol.548/2022年8月号


地底の奥深くで胎動していたオリンポス山のマグマが
いよいよ火を噴くのかもしれない。


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