縦横無尽に感じたこと
(アーカイブ未視聴、パンフ未読だけど、とりあえず勢いで書いておく。)
まず率直な感想。
もうとにかく、俺の生涯に悔いなし!って言えるまでやりたいことをやってくれ。どこまでもついていくから。
と思った。心から。
やっぱりこのひとの生きる姿勢が好きだし、声も、姿も好きだ。だから応援したい。ついて行きたい。(というと、やることなすこと何でも無条件で受け入れる妄信のようだけど、そういうわけではない。そこのところがうまく説明できないけど。)
このひとは、大勢の前で歌わなければいけないひとだ。
"悲しみの果て”
このひとが歌い続けていてくれる限り、どんな悲しみがあっても、果ての、その先へ行ける。そんな気持ちがこみ上げてきて泣きながら聴いた。
…ただやっぱり、音が整然としていてかっこよすぎた。‟獣ゆく細道” と ‟明日以外すべて燃やせ” も、背景の映像とあいまっての総合作品だった。もちろん、素晴らしくてものすごくかっこよかった。これはこれで。←このひと言がどうしても付いてしまうんだ。
やっぱりエレファントカシマシの曲はエレファントカシマシで聴きたい。
何度となく演奏されているのに荒削りなままの剥き出しな、あの音で。
そこで考える。
‟ガストロンジャー” がセットリストに組み入れられた意図を。
新しいファンに対する《エレファントカシマシの名刺》。
代表曲である ‟悲しみの果て”、‟今宵の月のように” 、小林さんと作りバンドメンバー紹介にも適した ‟あなたのやさしさをオレは何に例えよう”。そして、ご新規さんの度肝を抜くための挨拶としての ‟ガストロンジャー”。
「エレファントカシマシは宮本浩次の一部。それを証明しに出かける。」
そのためのソロ活動だから。
‟ガストロンジャー” を聴きながら感じたのは、曲のポテンシャルを試してみたかったのかもしれない、ということ。技巧に長けたバンドの演奏、迷路のようなカオスのような映像、歌詞の投影…、これらの精巧に計算しつくされた演出で歌ってみたらどうなるか――。もしこの推測が正しいならば、この実験は成功だった。ポテンシャルは証明されたと思う。ものすごくかっこよかった。
実のところ、とても不思議な感覚に襲われたんだ。
別人格のようでつながっていて、それを私が消化しきれていないところに、バンドの肝のような楽曲をキメッキメの別アレンジで繰り出されたもんだから、どうやって受けとめたらいいものか、一瞬、困惑したのかもしれない。
「あ、そうか、そうだ。そうだよ。
このひと、エレファントカシマシの宮本なんだった。」
でも、その不思議な感覚は嫌なものじゃなくて、なんだか心地よかった。
新しいシアターで開催されるコンサートとして、とても考えられて構成されていた。映像、古代ギリシャの柱、せり上がり、ロマンステーブル、花吹雪、ミラーボール。紗幕ごしに道しるべの灯を揺らす ‟夜明けのうた” 。
とんでもないショーが始まる期待に震えた。
見せ方、勝負のしかたが明らかに違う。出される音も違えば、見せたい景色も違うのだろう。
《縦横無尽――劇場型コンサァト》。
「それ」用に作りこまれてショーアップされたステージ。
コンテンツとしての宮本浩次だった。
「MUSICA」や「ROCKIN'ON JAPAN」の記事がとても楽しみ。
目指したもの、籠めた想い。
やってみたかったことをどんどん実現していったらいいよ。ソロ活動は憧れを実現していく舞台なんだから。《宮本浩次》がやりたいことを追い求めて、バンドとの相違が広がれば広がるほど、ギャップが深くなればなるほど、《エレファントカシマシの宮本浩次》が自由になれるんだから。
2020野音、配信は観なかったんだ。自分の耳目に刻まれた記憶を脳に定着させたくて、配信を観てしまうとその映像で上書きされてしまうような気がしたから。JAPAN JAM も、圧倒されて言葉にならなかった。刺さった気魄を溶かしていくのに時間が必要だった。感想を文章にまとめたいとも書こうとも書いておこうとも思わなかった。
でも、今回は書きたいと思った。この決定的な感じ方の違いはなんだろう。しっかりとした輪郭も骨格もある、プロたちによる完成度を極めたショー。極上の舞台か映画を観た後のような清涼感に筆が滑る。
どちらが好きかと問われれば、どっちも好き、と迷わず結論する。
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