『劇場』☆☆☆-ヒロインを超えた松岡茉優

 本作の成否は、松岡茉優演じるヒロインにかかっていた。本作(おそらく原作も)の戦略は、一見すると、主人公を慰撫する、物分かりの良い母性に溢れたヒロイン像を設定し、主人公の未熟さや身勝手さ、卑小さを強調するというものである(後半は、彼女が病んだ状態になるが、これもまた母性を強調する前半と表裏一体である)。また、本作は主人公の視点で語られるため、主人公にとってあまりにも都合のよい(甘いと主人公自身も認めるところではあるが)彼女の人物造形は、実際の彼女とは異なる可能性もある。いずれにせよ、あえて古いタイプの女性像を設定し、主人公の自意識をより鮮やかに示す点に、本作の基本的なスタンスがある。だが、このやり方は、単に古いタイプの女性と、よくあるタイプの恋愛を繰り返すだけに見えてしまう危険性も孕む。だが、松岡茉優という役者を得たことで、本作は、ヒロインという役割を超えた新たな主役を据えることができた。
 

 松岡茉優は、一人だけ、演技の解像度が違う。眠っている彼女のもとに、酒を飲んで気が大きくなった主人公が度々訪ねてくる場面では、彼女は、時に目を瞑ったまま、主人公に応答する。怒っているわけでも、完全に受け入れるわけでもない。そのバランスが完璧である。またクライマックスでは、二人のやりとりから、昔の台本の読み合わせに移るのだが、そこでは軽い読み合わせであると同時に、徐々に熱とリアリティを帯びるやり取りでもあり、でも台本の稚拙さによって、完全にフィクションと現実が混ざり合うには至らない。いくつもの層が存在する場面でも、全てを自分の演技に取り込んでいる。本作は、主人公の一人称であるからこそ、逆に彼女の視点で捉え返すと、どのように見えるか、という想像を膨らませることのできる作品である。
 

 主人公を演じる山崎賢人も健闘している。今まで見た彼の演技の中で一番である。特にクライマックスは、様々なものを脱ぎ捨てた姿を、迫真の演技で見せる。しかし、それでも松岡茉優とは比較にならない。主人公には、才能が無い、あるいは才能を認められないことへのこだわりがある一方、彼女の方は、一度出た舞台で高い評価を得る。その設定が、そのまま二人の演技力の差を反映している。もはや、計算してキャスティングしたとしか思えないほどである。
 

 『ちはやふる』、『勝手にふるえてろ』、『蜜蜂と遠雷』など、松岡茉優は作品ごとに凄みを増しているが、本作では、繊細さ以上に、ち密に練り上げられた演技で、作品全体を支配している。ヒロインという役割を超えて、予め設定された視点をも奪い取っていく彼女のために、この映画はある。


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