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朝鮮総督府嘱託が語る「人狩り」

 徴用の場合、納得のうえというのでは、なかなか予定数に達しない。そこで郡とか面(村)とかの朝鮮人書記係に引きつれられた人狩り隊が、深夜や早暁に突如、男手のある家の寝込みを襲う。あるいは田畑で働いているさいちゅうに、トラックを回して何げなく農民たちを乗せ、それで集団を編成して、北海道や九州の炭坑に送りこむ。こんな荒っぽい人狩り作戦は、末端官吏がやってのけたことではあるが、こうした蛮行を知ってて見逃し、あるいは何げなくすすめる日本総督の狡猾な意志が作用していたことも事実であろう。この徴用がたいへんな失策であったことはいうまでもない。
 生き地獄みたいな“タコ部屋”にとじこめて、骨と皮ばかりになるまでこき使ったあげく、朝鮮人の労務者がその命脈をつきさせてしまうと、その遺骨を粗雑な小包にして故郷に送りつける。玄関口にポンと放りなげられた包みがほどけて、骨がちらばっている光景を私は目にしたことがある。人間を人間あつかいしなかったこうした日本人に対し、朝鮮人が執拗な憎悪をいだいたとしても、いっこうにフシギはない。

(出典:雑誌『潮』1971年9月号 特別企画「日本人の朝鮮人に対する虐待と差別」-「日本人100人の証言と告白」)

・解説

 戦前から活躍していたジャーナリストで、陸軍大将を務めた宇垣一成の広報役のような仕事もしていた鎌田沢一郎の回想。
 宇垣は1931~1936年に朝鮮総督の任にあり、鎌田は、宇垣総督の朝鮮統治を平和的な経済開発とみなして、戦後に至っても評価し続けた。実際には宇垣時代も朝鮮民衆の生活が楽であったわけではないし、朝鮮人のための経済開発をやったわけでもないので、鎌田の認識は自分勝手で甘いものにすぎない。ただし、そんな鎌田でも、宇垣総督以後に行われた極端な同化政策や戦時動員はさすがにひどいと考えていたということである。
 戦時期の鎌田は朝鮮総督府嘱託の身分を持ち、日本本土の事業所に動員された朝鮮人の「慰問団」の活動にもあたっていた。そのため、動員の実態は、よく知る立場にあった。上の回想に出てくる、田畑で働いている朝鮮人をトラックに載せて人狩りをやったという話は、他の史料からも裏付けられる。朝鮮人の遺骨を粗末に扱い、送り届けていたという話も、当時の企業関係者が朝鮮人をどのような存在と見ていたのかをよく表す貴重な証言である。
 ただし、「こんな荒っぽい人狩り作戦は、(朝鮮人の)末端官吏がやってのけたこと」としているのは酷い言い分である。政策を決定し、動員人数を地域に割り当てた上層部や中堅の官僚たち(つまり日本人)こそが第一に責任を問われるべきであり、その命令を受けて現場で「実行犯」を担った末端官僚たちのせいにするべきではない。ましてその中でも特に村役場の朝鮮人の責任であるかのように語るのは、お門違いというものだ。
 ちなみに、村役場の朝鮮人が皆、暴力的な人集めを積極的にやっていたわけではないことも書き添えておく。むしろ、村役場の労務係が協力的ではなかったことを示す史料もある。同じ村の見知った顔の人びとや、その兄弟、親戚まで動員対象とせざるを得ないとなれば、躊躇するのは当たり前だ。戦争末期には、村役場の朝鮮人官吏が自分の村の若者をひそかに山に隠して動員忌避の手助けをするという事件さえ起きている。