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長崎地裁が認めた「軍艦島」の中国人労働者虐待

 端島坑における原告等への処遇は、基本的に原告らの陳述するような過酷なものであったと認めるのが相当である。原告等の陳述等を総合すると、概要以下のとおりである。
 仕事は採炭業務等であり、二交代制で1日12時間程度稼働させられるが、ノルマ達成のためなどに就労時間を延長されることもあった。監督から、暴力をも用いた監督がされ、休息や会話は著しく制限された。暴力は相当多数の者に対し、かなりの頻度でなされた。安全面での配慮は十分ではなく、作業服等は支給されず、李□雲を含め多くの者が負傷したと見られるほか、坑内で死亡した者も複数いた。就労拒否は許されず、李□雲においては、知人の死を契機に就労拒否を始めたところ、警察で暴行を加えられるなどしたと陳述している。
 寮には監視が付き、仕事の行き帰りにも監視が付いた。食事は、1日3食であったが、概ね1食あたり2個のマントウ程度であり、原告等を含む中国人労働者においておよそ足りるものではなく、李□雲、李之昌においても痩せていき、路上のミカンの皮を食べたりもした。李□雲は、夜盲症に罹(かか)ったとも陳述している。衣類等は、日本への船上で支給された後、褌(ふんどし)程度しか支給されず(ただし、船上で支給されなかった者には、支給があったと見られる。)、坑内で褌ひとつ程度で稼働することにもなった。寮の部屋は、畳敷きないしムシロ敷きの蚕棚のような寝床であったが、不十分な布団であり、冬場は寒いものであった。衛生面の配慮は乏しかったと見られ、李□雲は、部屋が非常に湿っぽく、疥癬(かいせん)に罹った旨陳述している。医療に関しては、病気で仕事を休むと食事が減らされるため、稼働を余儀なくされるということで、李□雲においては痛みを我慢した旨、李之昌においても病院に行っても大した治療は受けられなかった旨記憶している。
(出典:中国人強制連行訴訟長崎地裁判決文、2007年3月27日判決言渡)

●解説
 「軍艦島」として知られる三菱鉱業高島鉱業所端島坑では、戦中、日本人、朝鮮人の他に中国人も働かされていた。彼らは、中国で日本軍によって捕らえられ、日本本土の労働現場に送られて来たのである。
 端島などの三菱鉱業所で戦争終結まで働かされた中国人たちは、2003年、後継会社である三菱マテリアルを被告として損賠賠償を求めた裁判を起こした。判決自体は、他の戦後補償訴訟と同じく、除斥期間の経過、つまり請求を認めるには時間が経ちすぎていることなどを理由に原告は敗訴したが、判決文には端島での労働の実態についての事実認定が書き込まれた。証拠として提出された日本外務省の報告書や原告らの証言を基にした判断である。
 認定されたのは、12時間以上の長時間労働、頻繁な暴力、最低限の衣食住すら保証されない中で労働を強いられ、衛生や医療での考慮も全くなされていなかった、という事実である。こうした状況は、端島以外の労働現場に強制連行された中国人が証言している内容とも合致している。
 なお、判決文には、端島に関する以下のような労働者の証言が記載されている。

・監督は「見境なく棒で殴る」。
・反抗すれば切りつけられ、「首の後ろを切られて血が噴出し、地面に倒れて意識を失った」。
・働く時の服装は「褌ひとつで、わらじか素足」。
・食事が少なく下痢をしたが、治療も受けられず、「70㎏はあった体重が端島で50㎏位になった」。
・「坑内でガス漏れが発生した際、日本人の監督は、坑内に労工がいるにもかかわらず坑道の入口を塞(ふさ)ごうとし」た。
・中国人労働者が取り残された仲間(まだかすかに息があった)を「救出したが、炭坑長が救命措置をしなかったために死んだ」。

 外務省の報告書によると、端島では、1944年6月から8月までに204名の中国人が配置、就労し、そのうち15名が死亡している。死亡率は7.4%ということになる。これは、強制連行された中国人労働者の日本全国での死亡率(十数パーセント)よりは小さい数字だが、14か月でこれだけの人が亡くなるのは異常というほかない。
 強制連行された朝鮮人の労働者の死亡率はそこまで高くないので、まだマシであったとも考えられなくもない。ただし、彼らが働いていた戦時下の炭鉱で、人が死んでも何とも思われないような労務管理が行われていた事実は否定できない。①長時間労働②食事が足りず常に空腹状態③病気でも仕事を強制④反抗すれば殴打――など、中国人労働者が語っている状況は、朝鮮人においても同じであったと言える。