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佐渡金山の「募集」に応じた朝鮮人の事情

 昭和14年〔1939年、ただし昭和15=1940年の記憶違い〕2月の第一陣の募集に朝鮮(忠清南道)へ出向いた佐渡鉱山労務課、杉本奏二氏……が語ったところによると「前年の13年〔昭和13年は1938年だが、実際には1939年〕は南鮮は大干ばつ、飢饉で農民などは困難その極に達していた」という。一村落20人の募集割当に約40人の応募が殺到したほどであった。が、これは鉱山への就労を希望したものでなく、従前に自由渡航した先輩や知人を頼って内地で暮らしたいという者が多く、下関や大阪に着いてから逃亡した人が多かった。

出典:相川町史編纂委員会『佐渡相川の歴史』1995年

●解説
 朝鮮人の労務動員について、「『募集』で来た朝鮮人は本人の希望でやってきた」という俗説を主張する人がしばしばいる。
 1997年、歴史教科書の記述に関連して「募集」は強制連行ではないと主張する政治家が、国会で政府に質問したこともあった。しかしこれに対する文部省の答弁は、「(「募集」段階でも)任意の応募ということではなく…国家の動員計画のもとにおいての動員ということで自由意思ではなかったという評価が学説等におきましては一般的」だというものだった。

「『強制連行』は歴史研究の常識」と文科省が認める
https://note.com/katazuketai7/n/n21b388522fc5

 ただし、上の資料にあるように、朝鮮人が「募集」を忌避するどころか殺到したという記録もある。これは、「募集」に対する反応が、時期によっても集落によっても異なるためだ。一般的には、労務動員が始まった当初は比較的に「募集」に望んで応募する人も多かったが、次第にそうではなくなり、戦争が激化する頃には「拉致同然」となったと言える。

「人質的略奪的拉致」:小暮泰用「復命書」①
https://note.com/katazuketai7/n/n2987888276e5?magazine_key=m564e2cc578f0

 特に動員が始まった当初の1939年は、朝鮮半島南部は大干ばつに見舞われ、農民たちは困窮していた。コメの収穫は、朝鮮全体で前年に2413万9000石だったものが、39年は1435万6000石と激減している。朝鮮人に対する戦時労務動員は、その年の9月に始まっている。
 佐渡金山が朝鮮人労働者を「募集」したのは翌1940年2月。まだ春に遠いこの時期、家に蓄えた食料もなく、野山で草を摘んでしのぐことすら難しいという状況に置かれた農民たちも少なくなかったであろう。「一村落20人の募集割当に約40人の応募が殺到した」背景には、そうした事情がある。
 だが、佐渡金山の「募集」に応じた朝鮮人が、本当に佐渡金山行きを希望していたかと言えば、そうではない。鉱山労働は過酷な仕事だというのが当時は常識だったからだ。そこで、「募集」にいったん応じながら日本に到着したのちに、佐渡に向かう前に逃亡する者が出てくる。しかし、事情をよく知らずに佐渡金山に連れて来られた者は、恐怖におびえ、転職もままならないまま、労働を強いられた。

佐渡金山の労働は「死と背中合わせ」だった
https://note.com/katazuketai7/n/nbee1cb07a697

 そもそも「鉱山への就労を希望したもので」ない人びとが、なぜ、鉱山労働の「募集」に応じるのだろうか。朝鮮人の日本への移動が自由ではなかったからである。
 当局が発給する「渡航許可証」を持たない朝鮮人は、日本行きの連絡船に乗ろうとしても警官に止められた。言い換えれば、朝鮮人が日本に移動できたのは当局が許した場合のみであったし、就労することができた日本の職場は当局が許した場所だけであった。当時の朝鮮人には、職業選択の自由、移動の自由がなかったのだ。
 こんなことが行われていたのは朝鮮人に対してだけであり、日本人が日本と朝鮮を行き来することはまったく制約はなかった。一部の人びとが主張するような「日本帝国のもとでは朝鮮人も日本人も平等に扱われた」という歴史認識は、この一点をもっても、まったくの誤りであることが分かる。