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佐渡金山の労働は「死と背中合わせ」だった

 今から57年前の1940年11月、日本の植民地であったため、自分の国でありながらも働けず、米どころである農地もみんな取り上げられた。しかたなく家族の生活を支えるため日本への「募集」に応じ、若い仲間と船に乗り日本の土を踏むことになった。…
 「自由募集」と聞いていたのに、日本に着いたとたん「徴用」であることがわかった。三菱佐渡鉱山で働くことになった。(略)
 地下での作業は死との背中合わせで毎日が恐怖であった。毎日のように落盤があるので、今日は生きてこの地下からでられるのかと思うと息が詰まる思いであった。
 死んだあとも人間らしくあつかわれるじゃなし、何の弔いもなかった。
 私は悪運が強かったのか、おかげさまで今日まで生きのびてこられた。私も地下での作業中にハシゴから落ち、大ケガをしたが九死に一生を得たのである。そのあとはどうなったのか意識を失っていた。気がついた時には飯場の布団の上であった。腰を強く打ったので起きることもできず、病院にも行けず10日ほど寝たままだったように思う。
 やっとの思いで起き上がり、また仕事に戻るようになった。
 病気になっても2日以上休むことも許されない所に10日も動けず、働いていないことなどとても許されることではなかった。…
 戦後半世紀以上もたった今日においても、日本政府から心癒される言葉一つも耳にしたことがない。死んでいった仲間たちもいまだに成仏はできないのではないかと思う。私のような境遇にあった人たちが一人でも生きているうちに、誠意ある真の謝罪をしてくれることを願うものである。

出典:朝鮮人強制連行真相調査団編
『朝鮮人強制連行調査の記録―関東編1』柏書房、2002年

●解説
 戦時中、三菱鉱業佐渡鉱業所で働いていた、林泰鎬(リム・テホ)さんの証言。林さんは1919年生まれ、聞き取りが行われたのは1997年5月。その年9月に亡くなった。
 日本内地向けの労働者の動員は、確かに「募集」と呼ばれていたし、動員が始まった初期の頃は、生活難にあえぐ人びとが事情をよく知らないまま応募することも多かったようだ。佐渡鉱業所にも応募が殺到したことも伝えられている。
 配置された朝鮮人の多くが、過酷な坑内作業に従事させられた。訓練や安全配慮がどの程度なされていたのかは証言からは分からないが、経験のない仕事に恐れを感じたのは当然だろう。また、当時、金の増産のために、相当な労働の負荷があったことが予想される。軍需物資を輸入するには金が必要であり、金の増産は国策の至上命題だったためだ。
 そんな中で、事故も多発した。1935年頃には1日平均1人の事故があったとされるが、戦時期はもっとひどくなっていたと推測される。事故で死亡した朝鮮人は、1940~1942年だけで少なくとも10人いたことが確認できる(佐渡鉱業所「半島労務管理ニ就テ」1943年、『在日朝鮮人史研究』第12号1983年9月、に所収)。林さんと同様に坑内でハシゴをかけている際に滑り落ちて死亡したケースも報告されている。
 だが、労務動員で日本本土にやってきた朝鮮人に、転職の自由はなかった。林さんが、「自由募集と聞いていたのに徴用だった」と言うのはそのためだ。
 その後、運よく逃亡に成功した林さんは、川崎で日本敗戦の日を迎えた。それから52年後に語ったのが上記の証言である。それからさらに25年が過ぎたが、林さんが求めたような日本政府の誠意ある謝罪は、残念ながら、いまだに行われないままだ。

参考文献:広瀬貞三「佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)」『新潟国際情報大学情報文化学部紀要(人文科学編)』第3号、2000年3月
https://cc.nuis.ac.jp/library/files/kiyou/vol03/3_hirose.pdf