11/26の滴り「好奇心のおもむくままに・仮面をはずす」

私はいわゆる「モノを知らない」人で知識も教養もない人だ。

常識がわからなくてよく笑われたり呆れられたりする。
勉強なんかまったくできない。
普通、多くの人が知っていることを私は知らない(県の所在地とか)。
音楽がないと生きていけないけど、聴いてきた曲はとっても少なくて、今、私の周りにいる皆さんに比べると全然知らない。
読書好きっていったって、読んだ本の冊数なんてたかが知れてる。
映画も舞台も同じ。

なので色んな人の話に全くついていけないことが多い。
知識も教養もある家人によく言われるのが

「え、知らないの?本当に知らないの?」

だ。
はい、本当に知りません(そのうち愛想つかされそう・・・・)

口の悪い母親は私によくこんなことを言っていた。
「あんたは本当にモノを知らない子だ」
今思えば何をもってしてそういう評価がくだされたのか定かではないけれど、
母親は他人への悪口としてもよく「モノを知らないやつ」という言葉を使っていたので
私はずーっと「知っていること」が価値があるのだと思っていた。
そして私は昔から「なんも知らないコンプレックス」を抱えて生きることになった。
コンプレをこじらせた私は成長するにつれて
知っていることが珍しければ珍しいほど価値があると思うようになった。

そこで「知ること」に執着して目一杯勉強するなり知識を増やしまくれば
それはそれで少しは自分の栄養になったかもしれないけれど、
元々、勉強嫌い努力嫌いだったのでそんなこともせず。

知らないコンプレだけがどんどん肥大していったという最悪ロードを歩んでまいりました。
そんな私は現在、どうなったというと

知識も教養もないけれど、
私の奥の奥から湧き上がる「好き」という好奇心さえあればいいじゃん

である。
そう思えるようになってからまず始めたのは
長く「知っている」に価値を置いていたことによる「”知っている”が欲しい仮面」をまず壊すこと(苦笑)
何かを得ようとする、それは単純に「知っていることに価値があるから」なのか、それとも「好きだから知りたい」なのか。
そんなことまでわからなくなっていた真性ド阿保な私です。

勉強も努力もできなかったのは好奇心が疼かなかったからなんだよね・・・。
知らないコンプレが歪んだ形で肥大化した私はやがて
知ってるポーズをすることに力点を置くようにもなってしまいました。
そうなるともう「好き」という感性もぼろっぼろに錆ていってしまった。

という時期を経て(苦笑)
今は「好き」が全てです。

「知る」を追いかけるのではなく「好き」を追いかけるエネルギーは
若い時に比べたら格段に落ちたけれどまだまだ満ちている。
いらん常識や教養や知識を知る時間も隙間ももう残っていない人生後半戦、寿命までカウントダウンまっしぐらな今。
好きが全て。
誰かが「そんなこと知ってるなんてすごいね」って言ってくれるから知るようなことはもういらない。
誰かにとってくだらないことでも、「私が好き」なものこそが豊かな財産になるんだってわかったからね。

全集中、好きの呼吸、壱の型、好奇心!です!


私の感じた好きは全て尊い、のだ!

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