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DOMMUNE小山田圭吾特集を見て感じたこと

 DOMMUNEで小山田圭吾特集を観覧してきた。移動中に見られなかった部分もYouTubeで一通り見たが、何せ長時間あるので、細部は把握しきれていない。でもまぁ、ちょうどハードディスクのデータを派手に飛ばして復旧待ち中なので(とほほ)、今の気持ちを書いて整理しておきたい。

 DOMMUNEのあの回は、私の理解では、前半は、問題とされた雑誌記事掲載前後や炎上の経緯、そこで起きた小山田や関係者への人権侵害やメディアの責任問題等の検証、インクルーシブ教育など障がい者を取り巻く日本の状況の説明、後半は、これまでの小山田の作品の変遷を解説の後、DJプレイを聴き、最後に立花ハジメ氏のカバーによる「スターフルーツ・サーフライダー 」の後「あなたがいるなら」を聴きながら朝日が昇り締め、という内容だったと思う。

 きちんとDJイベントを見るのは初めてで、音楽や個性的なDJプレイを楽しめたし、抑圧されてきたファンが解放される様子を見れて良かったのだが、前半トーク部分を聞いていてまたもやもやが沸いてきた。そのもやもやは、小山田に関するTwitterを眺める際にも時折感じていたことだった。

 前回記事の繰り返しになるが、私は小中学時代を通して、言葉によるいじめを大多数の同級生から受けていた。自分は発達障害を持っているのだろうと思う。小山田と彼の音楽にはこれまでも好感を持ってはいたが(いじめの噂は何とはなしに聞いた気がする程度)、今回の炎上での世論の様子に疑問を抱き、作品を含め検証しているうちにファンになった。作品が普通に流通販売されるようになってほしいし、いつかライブを見たいと思っている。

 もやもやしたこと。それは、彼が小学中学時代にやったのは、段ボールやロッカーに閉じ込めたりするいじめぐらいであって、当時としてはありふれた内容で、それに対する炎上時の糾弾の程度が釣り合っていない、というのはおそらく事実と考えられるけれど(山崎洋一郎氏の証言がないと推測の域を完全には出得ない)、そのことと実際やった行為が相手をどの程度傷つけたかは別問題ということを、ちゃんと指摘する人がDOMMUNEの場にいなかったことだ。被害者の感情について話していないだけとも言えるが、それに触れないのは軽視しているからだという風に、いじめ被害経験者にはどうしても聞こえてしまう。

 あと、前半の最期の方は、出版関係者が多かったので、雑誌の編集責任についての話が強めに言われていて、私もそれは炎上を聞いた時から感じてはいたのだが、今回話を聞いていて、逆に少し待てよとその件を再考している自分に気づいた。

 世間で特に話題になったのは、ロッキンオン・ジャパンとクイック・ジャパンの2誌の記事だった。(癌患者への真夜中の残虐ギターの件は、DOMMUNEでも少しふれられたように思うが、外科に入院していた小山田の状況を考えると単なるネタだろう。癌患者や関係者が読む時の気持ちを考えるとやはり不用意な記事だ。ポリコレをどこまで徹底するかは、難しいところだと感じるライン。)けれど、あまり言及されないものの、いじめを含む学生時代の思い出を語った記事は、先に月刊カドカワにもあったはずだ。それを考えると、その頃の小山田は学生時代の思い出を、自分から話題を振ったのかは分からないものの、聞かれればあれこれ話していたのだろう。だから、最初に露悪への流れを作ったのは、ロッキンオン・ジャパンではない。

 雑誌が、凄惨ないじめを小山田がしたと読み取れるようにわざと捏造して書いて、小山田や事務所の同意を得ずに出版したのであれば、ロックっぽいイメージ作りへの協力の為としてもやはりどうかしていると思うし、小山田の炎上時にもっと速くもっと丁寧な声明を出すべきだったし、取材相手を大切にしている同業者が憤るのは分かる。しかし、雑誌社の無責任があってもやはり、小山田がしたアウティング行為のことを相殺はしないだろう。DOMMUNEではそれは自明のこととして触れなかっただけかもしれないが、小山田を許さないという立場の人も見ているのだから、それは言及すべきではないかと思った。

 昔自分がいじめられていたことを勝手に他人に話されるのは、嫌なものだ。私の昔の同級生の中で、いじめを悪びれていない人は、おそらくそれをやっていると思う。実際に耳にしなければあえて気にはしないし、人伝えに聞いても放っておくだろうが、それが雑誌やネットに載ったら、名前や内容が一部変わっていたとしても地獄だなとは思う。それに、昔いじめられていたと周囲に把握されることで、新たな場所でのいじめにも逢いやすくなるのだ。(私はいじめに遭っていたことを隠してはいないが。)勿論、親にもそれを読まれたくはないし、どんないじめを受けていたか詳細を知った親もショックを受ける。それが話題に蒸し返される度に家族で傷つく。小山田のやったのはそういうことだ。最終的に載せる判断をした雑誌にこそ、一番責任があるのだが。

 9月に出した声明で、小山田は自分が何をしたのかをちゃんと把握して反省し、償っていくと述べている。だからこそ、私はその文章に癒される思いがして、彼が問題を理解していることに安堵した。しかし、Twitterで小山田のことを話す人の中には小山田のアウティング行為の意味を理解していないような発言をする人もいる。本人達はその言葉で誰かを傷つけるつもりはなく、ただ名誉回復に焦っているのだと思うが、私はそこは慎重にと言いたい。

 DOMMUNEの場にも、障がい者とインクルーシブ教育の現状への丁寧な説明はあったけれど、いじめ問題に関する識者の同席が無いのはバランスが悪かったし、(おそらく宇川氏はそのことは把握しており、単なる準備期間不足だと思うし、注目度の点では急いで年越しで行った意義はあったとは思うけれど)関心を持って見る人の多いイベントなだけに、残念に思った。

 DOMMUNEへの登壇を断った理由を説明した、荻上チキ氏のブログでの文章は、私はそれほど過剰に小山田を非難するような内容ではないと感じた。荻上氏が述べているように、擁護者が一様でないように、批判者の考えもまた一様でないということは、肝に銘じるべきだ、と最近つくづく感じる。話ぶりが面白がっているのが印象的という部分だけは、捉え方が少し違うが。ファンタズマリリースの頃だったか、小山田がパーソナリティをつとめていたラジオを数ヶ月聞いていた身としては、当時の彼の話し方は、常に色んなことを面白がり続けている様子だったと記憶している。いじめが愉快でとか相手に障がいがあることだけが理由で面白がって語った訳ではないと思う。人間観察が趣味であること自体は、責められるようなことではない。相手の痛みをきちんと想像できていない部分はあっただろうが。

 私は不勉強で、荻上氏のこれまでの活動はほとんど把握しておらず、普段どういう言論を繰り広げられているのか知らない。気になってWikipediaでいじめ被害経験についての項目は読んだが、私が書くのは、あくまで今回のDOMMUNEを断った理由についての文章から感じた浅い印象についてのみである。今回の文章で、私が少々ひっかかったのは、7月にそのニュースに言及した時に「コメント時にも私的エピソードは盛り込まず、自分なりの見解を示しました。」とある点と、「より適切ないじめ理論が小山田氏にも届いていれば」や「いじめ関連のデータや知識などをさらに広めることの重要性」と述べられている部分だった。

 これを読んで、荻上氏は、プロとして理性的に客観的に述べて伝えることに重きを置いている人なのかなと感じた。(根拠はないが。)それには、彼のこれまでのいじめ対策活動での経験による実感も含まれているのかもしれない。しかし私は、いじめの影響が一番及ばされる部分は、まず第一に感情ではないのかなと思う。(勿論、いじめの内容によって影響は感情以外にも多岐に渡る。)感情の受けるダメージを伝えるのには、まず私的な感情から解きほぐして話していかないと、聞き手には実感を持って伝わらないのではないか、と最近のTwitterの状況を眺めていても思った。長期間のいじめを受けていない人には、受けたことのある人がいじめの話題をどのように聞いているか、結局想像しきれない。いじめを受けていた人でも、受け方は様々なので、他の人の痛みは分かり切れない。だから、まず各個人の経験を語って、それを前提にこの話題をどう受け止めたか話し合っていくと、お互いの理解が深まって、より良い環境を作る第一歩となると思う。クイック・ジャパンで村上氏がやろうと本来意図していたのも、それを先鋭化したことだったのだろう。

 私は、フリッパーズ・ギターの曲「全ての言葉はさよなら」を繰り返しお守りのように聞いてきた。(ファンと言うほどではやはりないけれど、どちらかと言えばこの頃からソロ一枚目の頃までの小沢の詞の方に興味があった。)その中で小沢が書いている「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」という詞は、書いた当時の意図は分からないが、ソロになって「凍えないようにして本当の扉を開けよう」と唄っている彼は、きっと違いを確認しあうことからしか関係性は始まらない、そう言っているのではないかと思う。(私は「天使たちのシーン」を聴くたび、「まだ扉を開けられてない、でもいつかきっと」と願う。)

 私がどうして小山田の件に執着し追いかけているかというと、音楽的社会的興味もあるが、自分の保留にしてきた過去を揺り覚ますような出来事に思えたので、そろそろいじめの記憶を一旦清算したい、という気持ちも大きい。だから、純粋に小山田の名誉回復だけを目標に動いている人達と、立ち位置がずれているのだな、と身に沁みて分かってきた。ずっとファンだった人達がこの夏受けた傷については、想像はできても実際には分からない。そのことも、もっと考えようと思う。しかし、小山田だけでなく他の誰かもこんな目に遭ってほしくない。だから、社会との関わりについても考えて行動に移したい。

 あともう一点、DOMMUNEでもやもやしたのは、「彼の後悔の念と人間としての成長が、これまでの音楽の変遷をたどればハッキリわかる」と言った論調が見られたことだ。Twitterでも「こんな穏やかで美しい曲をひどい人が作れる訳がない」という言葉を時々目にする。正直に言うと、私もそんな風に感じる時がないではない。でも、やっぱりそうは言わない。音楽というのは、個人の善悪を超えたところで創造するもので、だからこそ広がりがあるのだと信じたい。そして、いい人だから、天才だから、それを潰さない為に小山田が救われるべきなのではなく、どんな人も等しく価値ある人間として扱われるべきだ。

 Twitterで、やたら粘着したり、あちこちの炎上を見物して燃料を投下してまわっている人達も、結局はただ「私をもっと大切にしてくれ」と叫んでいるだけだと感じる。私にはまだ他人を宥める余裕はないし人のことは言えないが、去年買ったまま積読にしてある「オープンダイアローグ」についての本を、そろそろ読もうかな、と思った年明けだった。

 ああ、あと、小山田への「どうしてもっと早く謝罪などの手を打たなかったのか」という非難を何度も繰り返し見かけるが、その度に、先延ばし癖のある私は「思ったら行動できる人達はうらやましい、でもみんなわかってくれなくて怖いなぁ。すぐ動けなくてごめんなさい。」と思います。20代前半の若造に対しての、「いい大人が」という意見も、怖い。みんなすくすく成長できててうらやましい。

 カバー写真は、DOMMUNEで撮った床です。

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