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思考の錯視・バイアスを意識する

 人間は、出来事を理解する際に、事実と事実の隙間を想像で埋めている、というのを最近強く感じる。理解する手段として、点と点をつないで何らかの筋書きを作り、そのストーリー展開に足りなかったパーツを、無意識の想像で補っているのではないか。目が本来ない部分を錯視する時のように。
 他人が事実に想像を混ぜて意見を述べているのを見て、「想像に過ぎん」と指摘していた人が、次の瞬間には、自分も想像を事実であるかのように述べているケースも、結構な頻度で見かける。自分も時々やっているのかもしれない。
 対立的な意見の人がする想像は間違ったことに見えるが、似た意見側の人がする想像は、根拠のある妥当なものと感じる、というバイアスもかかっているのだろう。
 想像を元に擁護することと、想像を元に非難すること、どちらにも幾分無理がある。事実の分からない部分については、判断しようがない。
 
 陰謀論や極端な政治思想なども、想像とバイアスの反復で出来上がったものに見える。偏った世界観を提供している側には、自分もその世界観に浸りきった人と、意図的に世界観を作って利用している人の両方、もしくはどちらも兼ね備えた人がいるようで、どの場合も同じくらい厄介だ。
 私の身近にも、ワクチンなどの陰謀論に片足を突っ込んでいる人達はいて、マスクはするものの、コロナはインフルエンザと同じだと思っているようだ。一度見える世界が固定されると、見え方を変えることは容易ではない。向こうから意見を押し付けられることはないので、ついその話題はお互いに聞き流してやり過ごしてしまう。情けないことに、私もワクチンの仕組みやウイルスの生態などをきちんと理解しておらず、説明できる力もない。今の学校では、そういう教育はどのぐらいされているのだろうか?
 大切な人が陰謀論の世界だけに入り込まないように、日常的なつながりを維持することが必要なのだと思う。今の段階では、私も全然できていないが。ある意味、片足しか突っ込んでいないから現実生活に馴染めているけれど、その分抜けるきっかけがないとも言えるし、逆のきっかけがあればもう片足を入れてしまう可能性も残っており、油断できない。
 余談だが、私は陰謀論派ではないが、マスクをすると即かぶれるし鼻詰まりもひどくて息苦しくもある為、人に接近する恐れのない屋外では、時々外すこともある。そうしながらも、遠目の知らない人からは陰謀論派の人に見えているのではないか、いらない心理的負担をかけもしているのではないか、と常に心配である。苦しくて外さずにはいられないが、外してもやはり別の苦しみが待っているわけだ。そういう訳で、つい外出の必要がない時は家にこもってしまう。
 
 不用意な想像やバイアスを減らす(ゼロにはならない)為に、せいぜいできることは、自分に無意識の偏見がある、自分がマジョリティーとして差別する側にまわり得る、と常に意識しておくこと、色んな人と交流して意見を丁寧に見聞きするよう心掛けることなどだろう。心地よくない意見にも、耳を傾けること。とにかく、正解は一つではない、正解が存在するか分からない、物事はシンプルなストーリーには収まらない、と想定しておくことが必要だ。
 会う人や相互フォローを増やすことは、私には頭のフリーズが起こってなかなかに困難なのだけれど、今の状態では付き合いが少な過ぎて、視野が偏ってしまいそうだ。せめてネット上の色んな意見は、ある程度目を通すようにはしているが、それらに目を通す際にも、たぶんバイアスはかかっているのだろう。

 多様な意見を知ろうとすることは、一部の情報だけで人を簡単にジャッジしないようにする為にも、大事な姿勢になると思う。最近は、意見が合わない嫌な感じの人は徹底的に避けるのが吉、という態度が、現実生活でもネット上でも浸透しているように見える。もちろん、実際に加害してくるような相手は、避けるに越したことはないが、少し意見が合わないだけで誰かを避けることは、自分こそが正しいという思い込みにもつながる。
 対立していると思っていた相手も、よく話を聴くと、大事にしようとしていることは一緒だったり、見落としていた視点をもたらしてくれたりする。だから、簡単に相手が間違っているとシャットアウトしない方がいい。また、人は時間や経験とともに変化していくもの、という点も考慮すべきだ。
 私は、意見の合わない人のことは、心の中で判断保留にしておいて、時々自分のその人への気持ちの推移を確認することにしようと思っている。(断捨離の要領に似ていますね、人間を断捨離しようという意味ではないけれど。)保留にしようと思うようになったのは、これまでの職場で、普段の話は全く噛み合わず時に不快にもなるけれど、場面によっては尊敬出来たり頼りになったり協力し合える人に、何人も出会ってきたからだ。
 元々自分から率先して人を嫌いにはならないたちだが、学生時代は、必ずいじめるタイプと判断した人やどうしても合わなそうな人は、自衛の為に避けて生きてきた。しかし、人間は多面的なのだと体感して、簡単に判断するのは、楽だけどもったいないと思うようになった。その時々の自分や相手の反応を楽しめるようになりたい。
 誰かが何か失敗をした時は、問答無用で排除して解決する社会ではなく、原因を検証して対策を考える社会にしていきたいから、自分もそのように振舞いたいのだ。
 思い込みは自分の中に必ず存在する。同じ物事でも、見る場所によって、見え方は全然違う。一旦忘れた頃に再度見直してみることも、思い込みを外す有効な手段だと思う。

 カバー写真は、数年前に近所の花壇で撮った、フクロナデシコ。


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