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F1品種に関する誤解はなぜ生まれるのか

Twitterで、こんな書き込みを目にした。

元のTwitterは削除されているが、文章を簡単に紹介すると、

『1960年代、東京への人口集中により、地方の野菜を都市部へ大量供給するために「指定産地制度」ができた。それに伴って種苗会社は流通規格に合うF1品種を作るようになった。』

ということだ。

これは、投稿者によると「大竹道茂氏」の発言や書籍を参考に備忘録としてつぶやいたものだと主張する。

大竹道茂氏はこのような人物らしい。

ただ、この元の投稿者(仮にT氏とする)は1万人のフォロワーがあり、伝統野菜や固定種の野菜を褒め、自給自足の暮らしを推奨したり、自然派の産品の紹介やそういった暮らしをしているツイートを行っている。個人のアカウントというよりは「PR」のためのアカウントといってよい。自分のブログや記事、商品物販などへの誘導投稿も散見される。今回の投稿は、自身をブランディングする「自然派」「伝統野菜、固有種」などの情報を強化させるために「F1品種を暗に批判する意図で」行ったと考えられる。

※備忘録なのだとすれば、その都度その『大竹氏の本やブログでは、、、』ということを記載するべきとも思うが、あと出しで名前を出されて備忘録といわれても納得はできない。

まあそれはそれとして、ではこの大竹氏の主張は正しいのか、T氏が示した資料に対して反論するとともに、なぜこういった「F1種」への誤解というより偏見がしょっちゅう起こるのかを分析したい。


1.指定産地とは 野菜安定出荷法の意義と市場流通

まず、大竹氏の主張として
『1960年代、東京への人口集中により、地方の野菜を都市部へ大量供給するために「指定産地制度」ができた。』
というのがある。

また大竹氏はこの主張の前後に『それまでの野菜、今でいう「伝統野菜」というのは、大きいのや小さいのがあったり、曲がっていたりと全体的に揃いが悪いんですよ。それでは段ボールに入らない、「規格外」がいっぱい出るようになってしまった。そこでタネ屋さんが、サイズがそろうような、流通の規格に合うF1の野菜を作るようになっていきました』とあるが、これは事実だろうか。

時系列で整理すると

①F1種の生産開始・・・1920年代からはじまり、1930年代に一般的に開発が普及している。
②指定産地・野菜安定出荷法・・・1966年

①については、以下の文章を引用する。
『世界初のF1作物は、米国のパイオニアハイブリッド社が育成したトウモロコシであった(筆者注:1920年代)。トウモロコシでは、茎頂に雄花、葉の付け根に雌花があるため、母系統の雄花を全て切除し、父系統の花粉を母系統の雌花に付けることによって、容易にF1品種を作出することが出来たのである。また、野菜で世界初のF1品種は我が国で大正15年に埼玉県農事試験場で作られたナスであった。この成功を皮切りに、全国各地で在来の固定種からF1品種の作成が試みられた。
※引用元はこちら(茄子については品種改良種が昭和時代初期には一般的≒戦前からF1種の栽培が始まっていたことがわかる資料を以前神戸大学名誉教授の保田先生から教えてもらった記憶があるのだが、忘れてしまいました。。。)

つまり、大竹氏の「1960年代」にF1が作られるようになった、という記述は事実ではない。1960年代により大きく普及した、といいたいのかもしれないが少なくとも誤解を招く記述である。※より大きく、というのならデータを出すべきだ

②また、大竹氏の主張に出てくる「指定産地制度」について述べるために、「野菜生産出荷安定法」について簡単に触れておきたい。

おそらくだが、大竹氏は第8条(生産出荷近代化計画の樹立)における「二 集荷、選別、保管又は輸送の共同化、規格の統一その他出荷の近代化に関する事項」の事を極解しているのではないかと思われる。ここにある規格の統一というのは、野菜の大きさを統一しろということではなく、「サイズ」の考え方を統一しろということだ。例えば、大根で言えば『2L 1 本 1,200g 以上 L 1本 1000g以上』といったことだ。これが産地の中で生産者でばらばらだと流通も困るし、見た目で大きさがすぐにわからない消費者も、価格感が分からず混乱するだろう。

では、この法律で定められた「指定産地」ができたから、F1品種が普及したのか。

その前に、市場流通の話をしておくべきだろう。

古くから世界には「市場」というものがあり、都市部の食を支えてきた。

この流通の仕組みは素晴らしいもので、江戸時代の大阪天満の青物市場では尾張名古屋のウド、伊勢の若芽や干ぴょう、美濃の梨などが扱われていたと記録がある(寛政年間の天満青物市場が町奉行所に提出した「淀川筋下り荷物の小廻賃より 出典は西日本出版社 大阪食文化大全 笹井良隆著」)。つまり、江戸時代から全国の野菜が都市部へ流入していたのだ。

※指摘を受けて2/25追記。全国、と言うと語弊があるかもしれませんが、乾物野菜については全国から東京と大阪の市場などには流通していますが、あくまで生鮮野菜は都市近郊がメインで、季節によってはもう少し遠くからも流通がされていました。


大竹氏は先ほどの発言のさらに前に

『1964年の東京オリンピックにより東京は1000万都市になりました(中略)そこから大量の野菜を都市へ流通させるという政策です。その前までは籠に入れて短距離しか運ばなかったので、1つ1つの野菜は不ぞろいでも大丈夫だったのですが、遠距離を流通させるのにダンボールにおさまる野菜が必要になってきました』

と主張する。まず、遠距離(注:少なくとも茨城県や栃木などから運ばれている際も、別に籠だったわけではない)からの野菜の搬送は江戸時代からあるということを認識しているのか微妙である(さすがにそのころは乾物や日持ちのするものだが。大竹氏の言う短距離の概念が不明である。さらに追記すると、ダンボールでなく木箱流通も多かった時代である。木箱に入るのは曲がっていてもよいわけではない。)。

この時代から流通がしっかりと形作られたのに、1960年代まで「不揃いの野菜でも流通できた」というのはおかしい。おそらく江戸時代から、産地の方である程度形や大きさをそろえて出荷したと思われる(つまり、規格というものが昔からあった、というのが筆者の見解である)。大阪の方では飲食店や八百屋の目も厳しい(前述の笹井氏に聞いた話だが、江戸時代天満の市場の八百屋の主人が、奈良から運ばれたその年の初物蕪の出来を見て、わざわざ産地まで足を運んで、育て方が間違っていなかったか確認し、水やりの時季や方法などを細かく指示したということもあったそうだ。形が曲がるのは別として、不揃いばかりの野菜の流通が江戸時代を超えて明治までが「一般的であった」というような誤解を招く表現は許されるべきでないだろう。

また、大竹氏の主張する『東京が巨大都市になったのでF1品種が栽培されるようになり、伝統野菜が廃れた』ということが明確に間違っている物証としては、なにわ伝統野菜の鳥飼茄子の歴史がある。大阪府摂津市鳥飼地区で育てられていたという茄子は大正から昭和初期に広く栽培されていたそうだが、太平洋戦争による食糧増産によって畑を奪われ、手間の割に収量が少ない鳥飼茄子は、戦後しばらく全く栽培が途絶えていた(大阪食文化大全より)。ほかにも、戦争前後でいったん姿を消したなにわ伝統野菜は勝間(こつま)南京、毛馬胡瓜(1998年に65年ぶりに復活)など、枚挙にいとまがない。都市部の話ばかりだという指摘があるかもしれないが、田舎の方でも固有種はだんだん淘汰されている。例えば、朝日新聞のデータによると国内では1948年、タキイ種苗(京都市)がF1のトマトを発売。以後、キャベツ、白菜などに種類が増え、50年代から全国に広がった、とある。

※2/25指摘を受けたので追記すると、江戸時代から昭和初期の物流事情も大阪とほぼ変わらない(なんなら関東大震災の後は大阪の方が人口が多かった時代もある)。大竹氏は参勤交代で多くの野菜が持ち込まれたということを述べているらしいが、それはその江戸屋敷滞在用の者や随行者のためのものという側面が強く、日々の江戸庶民の暮らしを支えたのは、近郊農業と周辺地域からの物流である。https://www.shijou.metro.tokyo.lg.jp/gyosei/about/enkaku/

また、市場流通とともに考えなければいけないのが「野菜の販売場所」である。街中の八百屋はほとんどなくなってしまい、スーパーマーケットで野菜を買う人が主流である。ではそれはいつごろからそうなったのか。

日本で初のセルフ型スーパーマーケットは1953年青山で生まれた。

そして1957年、ダイエー1号店ができる。このころになると、大量生産大量消費の世の中がもう始まっていることが分かるだろう。つまり、1964年の東京オリンピック以前から、安定的に野菜を、安定した価格で生産できる産地形成の要望は始まっていたのである。そして、江戸時代から続く既存の完璧な流通網がその供給体制を担った。産地からしてみれば、市場を経由して流通する先が八百屋からスーパーマーケットに替わっていった。そして現在、スーパーマーケットは過剰気味であるが、その結果流通で価格交渉力を強く持つことになって、農業者の悩みの種となっている。一部の野菜の生産面積も過剰になってきているせいで、豊作貧乏状況が続いている。この話は長くなるので別の機会にするが、日本の農業の課題を語るなら流通の歴史と現状をしっかりと把握してから意見を述べてほしいものである。

なお、余談ではあるが1972年に農業総合研究に掲載された論文、川村琢著『主産地形成と商業資本』において、産地形成は『小農の形態のままで発展する市場に対応せざるを得ない農民が「自力で市場に対応する能力を十分に持たずに、他の力に強く依存しながら自らを変化しつつ、商品生産者に転化し、それなりに主産物を作り上げて市場に対応する地域に即した主産物の形成を、企業体の立地と区別して、我々は主産地の形成あるいは主産地化と呼ぶのである」とある。

つまり産地形成は、小規模農業者が戦前からすでに始まっていた市場流通の強大化という現実に対して生きていくために行った組織化であり、小規模農業者たちをまもろう、そして都会に安定的な野菜の供給を、という政策であるといえよう。

産地形成のその結果としてF1種を使ったわけでもなく、それ以前からF1種の栽培は始まっていた。大竹氏の主張は、流通の面からも時系列の面からも正しいとは言えないと断言する。


2.なぜF1品種は誤解されるのか

実はここからが本題なのだが、なぜT氏は大竹氏の引用とはいえあのようなツイートをしたのか。その答えはちょうど先日別の農家の連続ツイートに表されている。

つまり、F1種や遺伝子組み換え、慣行栽培(=農薬を使用した環境にやさしくないと彼らが主張する農業)に対して何らかの否定的な発言をしない限り顧客を惹きつけられないビジネスがある。それがT氏など「F1種やその他現代的なもの」と対極にあるものを扱う、自然派的ビジネスである。

もうひとつ、伝統野菜や固有種の野菜がなぜ廃れたかというと、育てるのが大変というだけでなく、「消費者の食生活・趣向が変わったから」である。

野菜が美味しくなくった(昔の野菜は野菜本来の味がしていた)、野菜の栄養価は年々下がっている、、、こういう主張はすべて間違いである(この辺も大竹氏の主張は全く間違っている。研究家としての大竹氏の業績は評価すべきものだと思うが、思想的には評価できない)

今現在多くの農家が作っているF1の野菜は甘さも十分だけでなく、料理にも合わせた性質を持ち、育てる側だけでなく調理する側、食べる側の要望を見事に体現したものが多い(神戸大学で開発されたジャガイモ「はりまる」の普及に関わる仕事をしているが、非常に食味も豊かでかつ煮崩れしにくい)。それは、多くの種苗業者の工夫と努力のたまもので、なおかつその野菜がいかにしっかりと育つかは農家の努力のたまものである。

かといって伝統野菜の出る幕はもうないというわけではなく、かつての食文化を細々と守る意義はある。私はコミュニティづくりの観点から、大阪天満菜の取組を支援したり、普及を手伝ったりした。何か地域のアイコンがあることはその住民にとって集う目標になる。広い意味でCSA(コミュニティ・サポーテッド・アグリカルチャー)だろう。しかし、徳本氏の指摘にあるようにそれは大きなビジネスとはなりにくい。そもそも多くの伝統野菜の収穫量では、その生産農業者は食べていくのは難しい。なので、地域で細々と支えていくか、『現代に対するアンチテーゼ』としてなるべく広く支持を集めてビジネスにしていくかしかない。

私は決して自然派や固有種の栽培を否定しない。ただ、自分のビジネスのために、『事実』と違う主張、あるいは誤解を意識的に生む主張をして、あたかも多くの農業者が育てている野菜やその農法が間違っているかのような印象を与えることは決して許さない。

T氏はフォロー外から突然指摘をする私の態度を失礼だという批判をしてきたが、ビジネスのために間違った情報を発信するような人間が改めるべきはまず自分の態度であり、そういった主張は私でなくても別の人からもっと厳しく指摘される可能性もあるだろう。ツイッターで礼儀を尽くして指摘するほどこちらも暇ではない。

SNSで自らの発信を行うことは別に気楽でもいいと思うが、多くの人に何等か自分の主義主張を訴えるのであれば個人であろうと会社であろうと、その発言の内容に責任を持つことが必要だろう(自己のビジネスと結びついている発信を普段からしているのであればなおさらである)。

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