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まちづくりとは何なのか~大阪市によるまちづくりの方針をみて~

フランスの社会学者、クロード・レヴィ=ストロースの「悲しき南回帰線(室淳介訳 講談社学術文庫)」に、文明についてラム酒をもって例えた章が「ラムの小杯」がある。


『マルティニック島で私は手入れの行き届いていない、いかにも田舎じみたラム工場を訪れたことがあった。そこでは18世紀以来の機械と技術がそのままに使われていた。それとは反対に、プエルト・リコの甘薯の生産を一手に引き受けている会社のラム工場では、白ほうろうの貯蔵庫やクロームメッキのコックがずらりと並んだ、なかなかの景観であった。だが、滓がこびりついている古い木の樽の下で味わったマルティニック島のラム酒は、舌触りが柔らかく、香りがよかったが、プエルコ・リコのラム酒はありきたりのもので、こくがなかった。(中略)この対象こそ、私に言わせれば、文明のパラドックスを見せつけているものである。というのは、文明の上げ潮はその滓までもいっしょに運んでくるもので、そこまで透き通らせることはできない相談であって、そしてまたその滓こそが文明の魅力となっているものなのである。』

これを、私は街づくりにかかわる上で大切な言葉だと考えている。

まちの魅力というものは、もちろん人によって感じ方も違う。しかし、共通のものとして挙げられるものも多い。きらびやかなショッピングモールや素敵な夜景もそうだし、最新鋭の機能が施された都市空間も街の魅力だろう。しかし、それと同じくらい、古き良き街並みの空間、古城、伝統を守る商品の工房も魅力を感じる人がいる。そしてその街並みに住んでいる人の生活も魅力となる。

過日私は、大阪市西成区についてのまちづくりについてのブログについて私見を述べた。

簡単にいうと、大阪市がまちづくりでやろうとしていることは、古きラム工場を廃止して最新鋭の工場に「早々に移行する」ことではないのか、それは果たして本当に大阪市の、西成のための事だろうか?安易なエリアブランディングでしかないのではないか、という批判をした。

取り上げたブログのライターの方が本日、その時のブログについて真正面からしっかりと取り組みなおしたブログを公開された。

私は、まちづくりとは『そのまちに何があり、何が魅力で、何をどう変えていく必要があるのか』を真摯に考え、またその中でしっかり取り組んでいる人の力をいかにうまく使うか、また一方で変えなければいけないところの『変える方法』をいかに考えるか、また『変えてくれるべき人』『この人では変わらない』人的リソースをどうしていくかということを考えなければならない、と考えている。

そしてその中で必要なのは、お金より「時間」である。今回の大阪市のエリアブランディング事業は、「2025年万博」を意識したものであり、西成区の課題解決に対して、本当にそのスケジュールでいいと思ったのか、甚だ疑問がある。

上記の島田氏のブログの中で、多くの西成区で活動する方々の声が紹介されている。これこそ西成を中心とした大阪のまちの魅力ではないのだろうか。

『くればだいたい何とかなる』

そうではないと思う。『だれでもまた人生を楽しもうと思えるまち』だったり、『普通を強要されない。誰もが何でもいい』などのアピールをして、そのためにいろいろな支援や取り組みがあることを訴えることがそれこそ2025年万博の大きなテーマである「SDGs」にふさわしいのではないか。一人も取り残さない、ということのために、どういう人とどういう取り組みがまちづくりの中に必要になっていくのだろうかを、お仕着せのお題目でなく、しっかりと見極めなければならないのだと思っている。

往々にしてそのような時間がかかる取組は、「まちづくりの実績」を成果にしてアピールしたい「政治家」とは相性が悪い。なので、本来まちづくりを行政が「責任をもって取り組む」ということはどこまで可能なのだろうか。

先日来、とある行政の方と違うテーマで話をしているのだが、どうしても『金を出すからこの通りにしなさい』ということが行政では往々にしておきやすい。それは、国と地方であったり、地方都市の中での行政と町の各種団体の関係でよくみられる。

しかし、これが当たり前ということではないはずだ。

地域おこし協力隊に始まり、タウンマネージャー、アドバイザー、外部委託による広告代理店、、、外からの人を外から(≒国から)のお金(≒補助金)でおこなっている「まちづくり」は、果たしてどれほどの効果が出ているのだろうか。かつて奈良市のタウンマネージャーだった私が言うのもなんだが、本来ならそのまちの中で、素晴らしい魅力を継承している人や、魅力を理解しつつ新しい取り組みも取り入れられないかを腐心する人をどのように機能させて、その人の阻害になっているような事、人を排除していけるように取り計らうのが政治であり行政であるはずだと思っている(まあ、いまさらではあるが、そういう上手い「立ち回り」をできなかったことは私の反省であるが)。

これから、大阪市だけでなくどの行政府であっても「まちづくり」についてどのように考えを持ってくれるか。もっと「まち」の根本的なところに視点を置いてほしいと思っているし、私が住む尼崎市に対しては都市計画審議員としてその意見をこれからも述べていくつもりである。

冒頭で述べたレヴィ=ストロースの「文明のパラドックス」について、その章「ラムの小杯」の最後では、ルソーのいう『モデル』を考えることが解決の道だという指摘をしている。『現在にはもはや存在せず、おそらく過去においても存在したことはなく、また未来にも存在することはないだろうが、それについては我々の現在の状態を判断するために正しい観念を持っておく必要のある、ある状態を十分に知る』に至ること、これがまちづくりの前提になると私は思う。

しかし、今のまちづくりの多くは『理想的な状態を、計画を作り、達成する』という無謀な取り組みがほとんどだ。若い人と老人が仲良く暮らす、というのならまだしも、人口が増えたり若い人がやりがいを持って多くその地域で働いたり、、、そんなことははっきり言って今の世の中では夢である。

その状態に近づこうということは大切だ。しかし、現実を正しく把握もせず、一人一人の、地域の一つ一つの魅力を鑑みることもなく新しいラム工場を建てても、多くの人はその「美味しさ」を受け入れないのではないかと考える。

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