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悲しみをかぶるぬくもり

やるせなさと、微かな動悸が響いて、どこにも焦点が合わせられない、どこにも落ち着いていられない気がした。とにかく人混みから離れて、自室の布団のなかに潜り込んで全てをシャットアウトしてしまいたかった。

どうしてこうもいやな生き物なんだろう。
最近、ようやく乗り越えられそうな気がしていたのに。概念におびえることほど、ばからしいことはないって、わかっているのに。

わけがわからなくて、涙が出そうだった。
それ以外の発散のしかたが、わからなかった。

表層だけとりつくろえればいいのか。自分の欲望を隠し通して、上手く誘導できるひとだったらそれでいいの?

こんな、たった一言、たった一言で、こんなにも私の世界を崩すことってできるんだろうか。

世に溢れる言葉たちを、真剣に、その重みをしっかりと受け止めることができる機会なんて、ごくごく限られている。大抵の場合は、流れていくだけだ。何もなかったかのように。ただの風景として。日々、どれだけの言葉たちが読まれもせずにスマホの上から下に流れていくのか。
いや、もしかしたら。私は、本当の馬鹿なのかもしれない。感受性が圧倒的に足りないのかもしれない。
でも、他人の経験なんて、わからないじゃない。

そう。他人に助けを求めるなんて、ひどく空虚な試みである。今私がとてつもなく恐怖を感じたところで、それを理解できる他人(ひと)なんていない。せいぜい、わかったふりができるだけだ。そうだよね、怖いよね、怖かったよねって。でもそんなこと本気で言われたら、私は私自身にもすがれなくなるんだよ。わかったふりができるだけだという事実に、打ちのめされて、でも結局は救われている自分がいる。

別に、理解してくれる他人がいたらいいのになんて思っているわけじゃない。打ちのめされたから、諦めの気持ちでこんなことを思ってるわけじゃない。理解しろなんて、ひどくわがままで勝手な望みだなんてこと、わかってるから。
結局私は、自分が大好きでたまらないのかもしれない。

ふと彼のことを考える。他の子にあの一言をかけるときのことを。そうして、女の子が乗り気になっちゃって、あわよくば、なんて生活をしているのかしら。なんて空虚な生活なんだろう、かわいそうなひと、とかいって彼を蔑むような行為は、却って自分を空虚にするだけだ。そんなの、私の方がかわいそう。

昔は悲愴ぶることがよくあった。ひどく感傷的な気分ぶってみたり、今ここで世間的には求められているだろう、多くの人が表現するであろうような感情に入りこんでみよう、演じきってみようなんて遊びをしてみたりした。でももうそんな遊びにも疲れた。私にはわからないから。ズレてた方がむしろ心地よいかもしれないし。

私の人格に干渉しないで。
それだけが、諦めに満ちた私の、今持っているささやかな望みなのである。

※執筆:2015年11月11日

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