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一〇 想像してごらん


 僕は、ヒロにポールの言葉をそのまま伝えた。でも、彼女は表情ひとつ変えなかったし、何も言わなかった。ただ、その時以降、彼女は相対性理論のことを口にしなくなった。

 僕とヒロはカフェの中で黙り込んだ。背後では小さな音で「イマジン」が流れ、ジョン・レノンが想像力を働かせるよう僕たちに勧めていた。

 僕はジョンに勧められるままに想像を巡らせてみた。でも、彼の言うような世界は見えてこなかった。

「あなたは、死にたい?」突然、ヒロは言った。

 僕は少し驚いて、

「まさか。考えたこともないよ」と答えた。

「それはどうして?」ヒロはなおも聞いてきた。

「どうしてって…」僕は少し考えた。でも気の利いたセリフは何も浮かばなかった。「そりゃ、やっぱりまだ色々やり残したことがあるから…」

「やり残したことって?」

「…」

 僕は黙ってしまった。そうだ、僕はいったい何をやり残してるっていうんだ?

 その時僕の脳裏に、ヒロの親友、かつて僕が絶望的な片想いをしていた女の子の顔が鮮やかによみがえった。しかし僕はすぐに自分に言い聞かせた。お前は何もやり残してなどいない。あの頃のお前にはあれが限界だ。意味のないことを考えるのはよせ。

 よほど僕が深刻な顔をしていたのだろう。ヒロは黙る僕を見てくすっと笑った。

「そうだよね。別に何をやり残してるって訳じゃないよね、私たちだって」

「うん。だからって、死んでもいいなんて思わないけど」

「そう。あなたは正しい。生きる理由がないことは死ぬ理由にはならない。でも、死なない理由がないことには生きられない人もいる。だから」ヒロは言葉を続けた。

「やり残したことよ。これはやっておきたい、やらずにいたら悔いが残る。ライフワークでも夢でも、なんかよくわからない心のひっかかりでもなんでもいいけど、そういうもの」


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