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語り部、徒然なるままに


わたしの語り部とは

あの日から自分は語り部になった。
いや、いつからそうなったのか正確なものや正確な日はわからない。
語り部になった・・・・なったのかどうか。
語り部って何なのか。

あの日からの日々。
あの日までの日々。
これからの日々。
自分の命や、大切なひとの命をぜったい守るために何が出来るだろうか。
思いを伝えるためには。

日々、たくさんの問いと答えがみつからないもの、こと、ひと。
そんなことばかりだけれども、伝えることで何かが生まれ、
何かが変わることも感じてきたあれからの日々。
だから思ったまんま、ふと感じたままのことばをそのまま綴り、
そのまま伝えよう。遺していこう。
そんな語り部徒然なるままに。

語り部ってなんだろう

語り部ってなんですか?っていう問いに今でも明確に答えられない自分。
自分が語り部って言われていることもわかっているようでわかっていないのかもしれない。あの震災を伝えているから、そうなのか。
でも災害を伝えるだけが語り部でもない。
あくまで全てではなく一部でしかない。そこには誰が良い語り部で、
だれがそうでないかなんて評価も本来は存在しない。
語り部に優劣なんて存在しないし、1番も2番も100番もない。
みんながそれぞれ伝えたいことを誰かに伝わるように伝えれば、
それが語り部だって単純に思います。

そんな自分も、自分が語り部になるとか、そう呼ばれるとか
意識することもなく、実はあんまり自覚もなく、
ともすれば語り部さんて、昔々の民話を伝えてくれるおじいちゃん、
おばあちゃんぐらいにしか思っていなくて、縁遠いものと感じていた
あの日までの自分。

「語り部」の言葉の意味は。
辞書をひっぱってきて「語り部」って言葉を調べてみた。
(Weblio辞書より引用)

古代古伝承を語り伝え、公式の場で奏した部。平安時代には践祚(せんそ)大嘗祭(だいじょうさい)のとき、美濃丹波・丹後但馬(たじま)・因幡(いなば)・出雲淡路の7か国から召されて古詞を奏したかたらいべ。

ある物事を後の代に語り伝える人。「戦争の—」

端的に称すれば昔から語り伝えられる 昔話 、 民話 、 神話 、 歴史 などを現代に語り継いでいる人を指していう。また現代の日本においては話芸を中心とするタレント、あるいは災害事件の教訓を語り継ぐ活動を行う者を「語り部」と紹介する例が見られる。

・・というような存在であると、確かに一般的にはそう捉えられているし、
尋ねられれば定義としてはそのように答えることになると想像します。

もちろん定義とか概念とか規定とかではなく、
伝えたいことをあらゆる手法であらゆる場面、機会で
あらゆる時間で、あらゆる場所で伝えていくことは
全て語り部、誰もが語り部なんだろうと思います。

なにか特別なことではなく、ごく当たり前で、ごく普遍的で
ひとが生きるための、生きていくための
1つの力が”語り部”というものなんだろうか、
ぜんぜん肩に力をいれなくても普段通りの人の姿そのものが
語り部の本質なのかと思う。

そしてもう1つの本質は、
■経験、体験したものを、経験、体験しただけが伝えるのではない
■正解が無い以上、気づきや問いかけをすること
■教訓をどう伝えるか以上に、どう次に生かすか
■常に学び続ける、学び合うこと

伝えるだけでなく、どう生きていくか。
そんなことを思いながら、
これからの未来にどう向き合っていくのか
試行錯誤は続きます。
「語り部ってなんだろう」って。


なぜ伝えるのか

最初から語り部になろう、と思って伝えることを始めたわけではありませんでした。
最初から何かの使命感があったわけでもなく、災害の経験話なんて自分では
言葉に、口にはしたくないという思いでした。
目の前の現実を受入れたくない、忘れて思い出したくないという
向き合うことにどちらかといえば恐れを抱きながら避難生活や災害後の
その日々を過ごしてきました。

災害の被災当事者でありながらも、語ることについては自分事ではなく
他人事として自分の思考回路や行動になっていた2011年のあの頃です。

被災したのだから他人事とは純粋に言えないのかもしれませんが
語り部そのものを傍観していたように思います。

まわりを見渡せば、
すぐに走り始めたひと。歩み始めたひと。
未来へ向かって顔を上げ始めたひと。
片や、
時間がそこから流れずに立ち止まったままのひと。
後悔と罪悪感に苛まれ顔を上げることができないひと。

同じ災害に遭遇しても誰もが同じではなく、
「被災者」という一つの括りではおさまらない
そんな価値観や風景や空気感が漂う
当たり前とはかけ離れた非日常的空間の中に
自分が放り込まれた時に
正常でいられたかというとそうではなく
後悔や反省、葛藤の連続の中で狼狽えたり、
なにか自分が進んでいきたいと思う方向性や目標が
霧の中で行き先がみえなくなるような感覚ではなく、
ホワイトアウトのような猛吹雪の中で
見えなくなるような感覚になっていました。

そのあとに襲ってきた焦燥感。
確かに命を守れた、・・・そしてその命を守り続けていくための日々。
みんなが生きていることそのものに喜びを感じ、
生きていることだけでも幸せ、
生かされたことに幸せを感じながら
それでも失ったものの大きさに今更でしか気付けなかった時間。

そのいろいろな思いを言葉にできる人は、
自分から見ても凄いな、よく出来るなという
いわば傍観者的な見方や考えはわたしだけではく
大部分のひとがそうであったと思います。

伝えようとして伝え始めたわけでなく、
始まりはふるさとを知ってほしいという気持ちから。
この町で起こった震災がどんなものだったのか以上に
この町が震災の前はこんな町だったよって知って欲しいと思ったから。
正直に言えばこの時点では何か使命感があったわけでもなく、
誰かの命を守りたいとか、誰かの学びになればと思っていたわけでなく、
ただ、
じぶんの生まれた町、住んでいる町、大好きな町を
知って欲しいということが始まりでした。

なぜ伝えるのか。
・・・・10年経っても、20年経っても、
答えが見つからないか、
もしかしたら答えがないものをずっと追い続ける
そんな問いなのかもしれません。

なぜ伝えなければならないのか

なぜ一歩目を踏み出したのか


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