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地雷拳(ロングバージョン10)

承前

 
 通りは人々の叫び声でパニックに陥っていた。どこかから壊れたクラクションが鳴り響く。トラックが腹を見せて転がり、黒煙をあげている。アスファルトの路面にはビルの残骸が突き立っている。コンクリートの石板が立ち並ぶ様子は、ビル街のジオラマのようだった。
 ギュルギュルギュルギュルギュルギュル……
 スパインテイカーの回転腕が喧騒をかき消した。
「カラテチップの娘よ! もう終わりか!」
 異形のカンフーロボが、倒すべき相手を求めて叫んだ。
「カラテチップなど超人である覇金の前では無意味!」
 スパインテイカーが隣にあった建物の残骸に拳を振るう。拳がぶつかった部分から、塊は砂となり、瞬く間に塵となった。
 その向こうで、石板のひとつが音を立てて崩れた。黒ワンピースの女が立っていた。
「……買ったばかりなのにさ」
 姫華がワンピースを叩くと灰色の塵が煙った。その手は擦り切れて血が滲んでいる。
 スパインテイカーの回転腕が好敵手を前に、ぎゅるりと鳴った。
 姫華は足に力を込める。虚勢を張らなければ意識を保てない。骨たちが一斉に悲鳴をあげていた。奥歯を噛み締めて痛みに抗った。
《本当に死ぬかと思った》
「……カラテチップってすごいじゃん」
 姫華は瓦礫群を利用して辛うじて難を逃れていた。全てを破壊し尽くす一撃は、強化された身体で凌いだ。
「まだ生きていたとはな」
 スパインテイカーの眼光が点滅した。笑っているようだ。
 死に物狂いの動作で、関節が錆びた蝶番のように軋む。気を抜けば、身体が爆発しそうだった。
 姫華が一歩踏み出すと、靴底で氷を踏む感触がした。底にはラージサイズのピザほどのガラスが刺さっていた。厚底を選んだ自分に姫華は感謝した。
 視線を動かすと、鉄筋に警備員の生首が刺さっていた。血で金属を濡らしながら、切れ長の目がこちらを睨みつけている。まだ、姫華を盗人だと疑っているのだろう。
「俺はHG-09、スパインテイカー! 隠者のカンフーチップ使い!!」
 姫華は声がする方を向いた。赤く光る双眸がこちらを睨みつけている。
 赤い蝶ネクタイの鋼鉄の戦士は名乗った。これまで会ったカンフーチップ使いの誰よりも大きかった。そして何よりも、姫華は右手に目が行った。
 やけに太いのだ。クレーン車やショベルカーのような重機の印象を持つ。腕に埋め込まれたシリンダーの内側では、軸を取り巻くようにドーナツ型の金属が回転していた。
「隠者って……どこが」
 姫華は思ったままを口にした。スパインテイカーは愉快そうに笑った。
「俺の頭にはあらゆる中国武術の秘伝書が入っている。全てを知ることで一つのことに辿り着いた……一撃必殺だ」
 中の回転機構は赤熱していた。ビルの壁を破壊する破壊力だ。まともに受けていれば姫華は立っていられなかった。
「一撃必殺は誰もが目指し、成し得なかった。俺はカンフーと科学技術でそれを完成させた!」
 スパインテイカーが右腕を振るう。石板群が、がららと砕け散った。小石ほどの破片が雨のごとく降り注いだ。
《隠者は理想の追求と自己発見……。おそらく奴のカンフーチップは数多の拳法を取り込むことで最強を導き出した……》
 スパインテイカーの回転機構がゆっくりと動きはじめる。
「太極拳経、少林棍法闡宗……あらゆる書物をインストールした。だからこそ、一撃必殺が必要なのだ」
 スパインテイカーの右腕が赤熱している。鉄芯の熱が空気を歪ませていた。
《姫華ちゃん。奴は何度もあの技を使えないはず……》
「ひ、ひぃい!」
 瓦礫群から女が起き上がった。異常事態に気がついたのだろう。奇声をあげながら、姫華たちの間を通り過ぎようとした。
「ゼィ!」
 スパインテイカーが右腕を振り抜く。拳が女の顎を打ち抜いた。
 女の首が伸びた。姫華にはそう見えた。
 うなじがぶつり、と赤く割れる。中から白い脊椎が蛇のようにうねり、空へと伸び上がった。
 5メートルほど女の首が飛んだ。残りの身体から膝をつく。頭が脊椎をたなびかせながら地表に落下する。地面につくより早く、姫華は動いていた。
「俺は一撃が最大火力なんじゃない。どの一撃でもお前たちが脆すぎて死ぬだけだ」
「だったら、あたしがあんたの一撃で初めて生きている奴になるね」
 スパインテイカーの表情は変わらない。
「そう言って死んだのはカンフーロボにもいる」
 スパインテイカーにとって自分以外が「お前たち」なのだ。最大破壊力を持った鋼の巨人は、姫華に右拳を振るおうとした。
「ぬっ!」
 スパインテイカーが呻いた。唐突に視界が遮られる。白い煙が広がった。同時に頭部が衝撃でぐらついた。
 煙の中から、姫華の手刀がスパインテイカーの側頭部を穿っていた。さらに、左脚での回し蹴りが逆の側頭部を打った。視界が不明瞭な中、姫華の姿を捉える。
 彼女の手にはコンクリート片が握られている。スパインテイカーの必殺の右拳にぶち当てることで、煙幕を作っていたのだ。
 姫華の顔が近づく。ビューラーで上がったまつ毛が針葉樹のように揺れる。鞭のように姫華の脚がしなった。スパインテイカーの肩口にガラス破片付きの回し蹴りが入った。
「……小癪なッ!」
 だが、巨大な右腕が持ち上がらない。肩から下が石のように固まっているようだ。
「あんたもあたしの養分になるんだ」
 スパインテイカーは気づいた。スーツがガラス片で破れていた。右腕を動かす関節が露出していた。その部分にリップが挟み込まれていたのだ。
「こんなもので……!」
「勝ちゃあいいんだよ! 勝ちゃ!」
 右、左、鋭い拳の連撃が弧を描く。スパインテイカーの左腕を執拗に狙っていた。それは十分にスピードを備えた一撃だった。
「あんたの右腕に本当にいるのは左腕だろう。一撃必殺を打てる右腕の重心を支えてんのは分かってるんだよ!」
「ぐぐ……」
 スパインテイカーの左腕が軋みを上げる。耐えられたのはほんの一瞬だった。姫華の踵が、スパインテイカーの左肩を砕いた。防いでいたまま、左腕がごろりと転がった。
 このまま終わらせてやる。
 姫華が正拳突きの形をとろうとした時だった。
「……覇金の奇跡をなめるなよ!」
 鋼鉄の巨人の怒りに右腕の回転機構が呼応した。
 スパインテイカーが腰を落とし、跳んだ。巨体が街路樹よりも高く上がった。
「自分の策に落ちたことを恥じるんだな! 封じられた右腕ごと貴様は潰れて死ぬ!」
《まずいッ……!》
 スパインテイカーを危険に思ったからではなかった。姫華の感情を読み取ったのだ。
 姫華の心に去来していたのはマローダーの巨拳だ。手と背中からじわりと汗が滲むのが分かった。心臓が早鐘を打つ。喉奥が締まって呼吸ができない。
 極限のストレスはすぐに回復できるものではない。本人が気づかないだけで刻まれた傷は、いつでも開いてしまう。
「背骨ごとすり潰してくれるわ!」
 スパインテイカーの右腕が迫る。心と身体が追いつかない。姫華の身体が動くことを拒んでいた。
「クソが……」
 姫華の歯の隙間から唸った。
《来て!》
 道の向こうから、エンジンの唸り声が聞こえた。
 小隕石と化したスパインテイカーが落下した。衝突音とともに地面が揺れた。アスファルトが衝撃で柱が生えたように隆起した。
「間に合ったか」
 マクセンティウスが、鋼の巨人の前に現れた。黒い大狼が、異国の姫を背中に乗せて運んでいるようだった。
「あんた……どうやって」
「礼ならお前の姉に言うんだな」
 姫華は姉に意識を集中させた。
「カラテチップで?」
《マクセンティウスとは離れていても話せるからね。やるだけやっただけ》
「ありがとう……」
 ぎゃりぎゃりぎゃりぎゃり……
「貴様が裏切るとはな……。砕くものが増えて何よりだ」
 スパインテイカーが腰を落とす。左手を前に出し、右腕を後ろに構える。
「俺はこの女の行く末を見たいだけだ」
「……ここでお前たちの野望を打ち砕く」
「あたしの金はもらっていく。龍斗のボトルにあんたの頭を飾ってやろう」
 姫華がマクセンティウスの上に乗る。サーフィンじみて半身の体勢をとった。
 腰を捻り、右腕を引く。正拳突きをいつでも打てる。
 帯電したように周囲の空気がピリついた。喧騒が遠ざかっていく。唾液を飲み込む音すら聞こえてきそうだった。
 時間が凝固して両者の間に超自然の空間をつくりあげた。
 姫華はスパインテイカーの右腕を見た。
 シリンダーを螺旋状に金属が動いている。チェーンソー同士をぶつけ合わせたような不快な金属音が夜の街にこだました。
 回転機構はこれまで以上に轟音を発していた。鼓膜が破れそうだ。
《街ごと破壊する気よ》
 その時、幾千の狼が吠えたてた。
 マクセンティウスのエンジンが咆哮したのだ。
 タイヤが悲鳴を上げる。メーターが限界に達する。姫華は相手の動きを目に焼きつけた。
 スパインテイカーの動きに澱みはなかった。差はあれど、覇金グループで選び抜かれたカンフー使いなのだ。左腕の重心の変化に対応していた。拳が姫華の顎めがけて迫る。
 正拳突きはまだ撃たない。
 鉄の巨人の表情は変わらない。だが、わずかに目の光が鋭くなった。
 近づくと改めて拳の大きさを感じる。軽自動車に真っ直ぐぶつかってくるようなものだ。脳の中で赤信号が光る。
 まだだ。
 姫華は歯を食いしばった。恐怖に打ち勝たなければならなかった。正拳突きは、まだ撃たない。
 姫華のハーフツインが拳の風圧で、後ろに引っ張られた。
「突きなど無駄! ラフォーレが貴様の墓標となるのだ!」
 スパインテイカーの右腕が咆哮した。
 姫華はバイクを飛んだ。足が離れる瞬間、体操選手のごとく身体を捻った。
 じっ、とすり潰された嫌な音がした。
 姫華の頭を確実に捉えた。スパインテイカーの双眸が激しく光る。ラフォーレ原宿が砕け散る姿を想起させた。演算機能が、彼の昇進を確定させた。覇金紅と並ぶ自分の姿が映し出された。
「ハハハ、一撃必殺の勝利──」
 スパインテイカーの意識が戻った。
 ラフォーレ原宿はまだ建っている。白い塔の上には「LA FORET」の文字がライトグリーンの光を灯している。
 スパインテイカーは狼狽えた。
「随分都合のいい夢を見てたようだね」
 姫華は後ろを指差した。糸で弾かれるようにスパインテイカーは振り向いた。
 子どもがブロックを崩したような有様だった。明治神宮前に東急プラザが移動していた。ガラス張りのショッピングセンターは臓物のごとく破片を撒き散らし、半分消失していた。街路樹は横倒しになり、タクシーに突き刺さっていた。
「一撃必殺は伊達じゃないね」
 呆然とするスパインテイカーに姫華は寄りかかった。姫華は笑っていた。左の眼窩が擦り切れ、血が伝っている。
「……貴様、何を」
「分からない? 逸らしたんだよ」
 スパインテイカーは姫華のわずかな変化に気づいた。
 姫華の目が左右非対称になっている。
「そうか、そうか、なるほどな。蛮勇と浅薄の塊よな!」
 スパインテイカーは肩を揺らし愉快そうに笑った。
 カバンから姫華は新しいコンタクトを取り出す。新しいパッケージを開け、眼をなぞる。両眼が同じ大きさに戻っていた。
「あんたの異常な拳を逸らすタイミングを図るのは難しい。最後の最後まで見る必要があった」
 鉄の巨人は咄嗟に応えることができなかった。
「あたしは恐怖を乗り越えないといけない。トラウマごときに、あたしと龍斗の夢を潰させるわけにはいかないんだよ」
「夢だと?」
「龍斗をナンバーワンにするんだよ」
 スパインテイカーには理解ができなかった。頭を砕かれる瞬間に、目で受け流した。献身とは乖離した自殺行為だった。
「あんたが一撃必殺を信頼していて助かったよ。突きじゃ、あたしの目は潰れていた」
 彼に立ちはだかるこの女は笑っている。
「狂人め……」
 覇金グループの意向など関係なかった。スパインテイカーは再び構えを取ろうとした。
「ぬ……」
 左腕を握っているはずだ。確かに腕を動かしている感覚があった。
 隣に横転した車があった。ひび割れたガラスに映るのは、左半身の消失したスパインテイカー自身だった。右眼の光は弱々しく灯っている。
 一撃必殺は、本物だった。自分を打ち抜けば、命を奪うほどに。
 スパインテイカーが右腕を握りかけた時、背後で影が踊った。
 老人だった。頭に機械を埋め込んだ、覇金で見たあの老人、船越呂円だった。
 呂円は笑っていた。
「いやはや、珍しいものが見れたもんだ!」
「おいぼれが──」
 スパインテイカーの息の根を、老人の足刀が停止させた。がぃんと無理に力を入れた金属が千切れた。飛び上がった頭は地面をバウンドし、崩れ落ちた石片の坂を下る。首は姫華の足元に転がった。
「お主に用はないわ」
「あんたのカンフーチップは──」
 姫華の言葉はそこで止まった。
 老人は目の前にいた。映像にカットが入ったように唐突に現れたのだ。
「嬢さん。あんた覚悟が決まっとるねぇ」
「あんたなんなの」
「あたしはね、呂円。船越呂円ってんだ。海の向こうでちょいと暴れちまってね。ちょうど耳も遠くなってたもんだから良いもんだ」
 船越呂円は自分の耳を指差した。金属板が輝いた。
「ちょいと遊んでくれよ」
 老人の拳はゆっくりと姫華に向かって伸びた。
 受けるほどの速さにも思えなかった。スパインテイカーの剛腕を見た後だから尚更そう見えた。姫華の胴にぶち当たった。
 声がなくなった。姫華はそう錯覚した。。
 ボウリングの球が豪速球でぶつかってきたような衝撃だった。姫華の肺から酸素が押し出される。踏ん張ろうとするが、足に力が入らず、膝をついた。
《追撃が来る!》
 予想に反して、呂円は足を止めた。
「まだまだだが、見どころがある」
 姫華を見下ろして笑った。老人の右手の指が外側に折れ曲がっていた。
 姫華も笑った。脂汗が滲んだ。
 こいつにはスパインテイカーのような目に見える強さがない。いまだに自分が動けないことが理解できなかった。
「姫華ッ」
 マクセンティウスのタイヤが悲鳴をあげて止まった。
 老人の表情は半分眠っているような顔つきだった。姫華を一瞥してくるりと背を向けた。
「……おい」
 姫華の言葉に、老人が振り向くことはなかった。
 姫華が舌打ちをした。姉は安堵のため息をついていた。
《相手を見て判断して。あの老人は……あなたよりも強い》
「……それでもやるだけだよ」
 相手が強いかどうか、そんなことは知ったことではない。相手がカンフー使いなら全員倒すつもりだった。
 姫華は常に思っていた。自分はゴミだ。姉ほど賢くなければ、人と話すのだって大嫌いだ。何もできないのが取り柄だとすら思っていた。
 けれど、カンフー使いと対峙してる時は違った。プレス機からギリギリで手を抜くようなスリルの連続だった。少しのミスが死に直結する局面が脳に鳥肌を立たせた。殴り合いの中で得られる快感は、風邪薬のオーバードーズよりも上回った。
 自分に嘘はつけなかった。
 ぐちゃぐちゃになった自尊心は龍斗がいたから崩れずにいたのに。自分の支えが置き換わってしまうのが怖かった。
「行くぞ」
 マクセンティウスのエンジンが鼓膜を震わせる。
 遠くでアドトラックがユーロビートを奏でていた。それを覆うようにしてパトカーのサイレンが鳴り響く。
 行かなければ。姫華は無理矢理上半身を起こし、マクセンティウスに体を預ける。スマホが振動した。一件の通知が来ている。龍斗からだった。液晶には「会いたい」とだけある。通知はさらに増える。
 バッグに携帯をしまい、マクセンティウスに跨る。携帯のバイブレーションはまだ続いていた。
(続く)
 


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