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渦の果て、墓標は流れつき

 夕暮れの影が坂にのびる。背丈ほどのススキが風に揺れる。僕の住む街は少しずつ輪郭を歪めていた。
 はじまりは3日前。夕方のニュースで、アナウンサーが明日の天気予報をした後だった。
 不思議な事件だった。夜中にサラリーマンが道端に捨てられていたのだという。しかもお腹にナットが沢山入っていたらしい。
 事件現場の映像が流れると僕は驚いた。タンポポがまばらに咲いたブロック塀に挟まれた道とススキが伸びる空き地が映っている。
 死体は僕の下校ルートで見つかった。
 母さんはため息をついて「いやね」と言った。僕は気のない風に「そうだね」と返す。でも、その時にはもう頭の中がふわふわしていた。怖い映画や不気味なコマーシャルが流れるといつも僕の頭はふわふわしてくる。僕は画面で起きた出来事の先をずっと考え続けてしまう。
 ナットをお腹いっぱい食べさせた人はどこに行くのだろう。いいことをしたら気分が上がって歌いたくなるんじゃないか? カラオケに行ったのかもしれない。この道をまっすぐ行けば賑やかなアーケード街にもつながる。
 カラオケで何か食べるだろうか。いや、きっとなにも食べない。ナットを食べさせる人が食べたいものはカラオケには無さそうだ。歌い疲れたら別の場所で食事をとるだろう。
 そこまで考えたとき、キッチンから母さんの声が聞こえた。
「出来たから運んで」
 味噌汁の匂いとお米の甘い香りで、口の中がじんわりと唾液で満ちる。自分がお腹が空いているのに気づいた。僕は飲みかけていたお茶をこたつに置いてキッチンに向かった。

 次の日。いいことと悪いことが起こった。
 良いことは、学校が3時間目で終わったことだ。昨日の事件を重く受け取った先生たちは僕たちを早く帰してほとぼりが冷めるのを待とうとしていた。
 悪いことは小学校で集団下校が始まったことだ。僕は小学4年生だ。年下の子たちと歩く速さを合わせなければいけないから、僕はあまり気乗りがしない。それに5、6年生はいちいち偉そうにしてくるから嫌だった。
「おら、はやくいくぞ」
 6年生のショウゴくんが下校仲間に発破をかける。だけど、僕たちは聞く耳を持たない。
 事件現場に差し掛かると、それまでルールを守ってた僕たちは散り散りになった。テレビの事件はいま僕たちがいるこの場所で起こったんだ。そんな気持ちが爆発した結果だった。
 3年生のミチくんはアスファルトに四つん這いになり何か探している。おなじ4年生のミサトちゃんはブロック塀をじいっと端っこから観察している。みんなこの事件の犯人を探す探偵になりきっていた。
「あっ!」
 とびきり大きな声をあげたのはミチくんだった。
「みんな見て!」
 ショウゴくんも渋々ミチくんを見た。ミチくんの手には銀色に輝くナットがあった。
「これって、ナットつめつめ男の!」
 そう言ったのはミサトちゃんだった。ミサトちゃんの家では「ナットつめつめ男」と犯人を呼んでいるらしい。
 それから、僕たちは付近を探してみた。ショウゴくんも気乗りしなさそうに付き合ってくれた。
「あった!」
「ここにも!」
「おーい! 見つけた!」
 用水路の中や草むらから拾いあげる。ナットは僕たちを導くように落ちていた。拾いながらミチくんは警察よりも鼻が利くのを得意げにしていた。
 ショウゴくんはいつの間にか探し方を指図するようになっていた。ナットがススキだらけの大きな空き地で途切れたとき、僕とミサトちゃん、ショウゴくんとミチくんでチームに分けた。
「東は俺たちが行く。明日また報告しあおう」
 ショウゴくんの言葉にうなずき、僕たちは空き地の西側を進む。
「フミオくんはナットつめつめ男に会ったらどうする?」
 ミサトちゃんはススキをかき分けながら僕に訊いた。
 僕は少しだけ困った。会ってどうするのだろう。不思議な事件に興味があるのは確かだが実際に会ってどうするかは考えていなかった。
「私はね、おばあちゃんにナットをつめつめしてもらうんだ」
「えっ」
「最近ね、おばあちゃんの調子が悪そうなの。昨日のことを忘れたり、ご飯を食べなかったり……。そのうち私のことも忘れちゃうかも。だからね、時計みたいに機械になればおばあちゃんも私を覚えていてくれる気がするの」
 ミサトちゃんが笑顔でこちらを向く。僕にはミサトちゃんのほうが調子が悪く見えた。
 それから、周りをくまなく探したけれど、ナットは一つも見つからなかった。太陽が沈みかけ、空がオレンジがかってきている。家に帰る時間が遅くなれば母さんに怒られてしまう。
「ミサトちゃん。明日にしよう」
 僕は声をかけた。ミサトちゃんの返事はない。人影を探しながらもう一度名前を呼ぶ。僕の声はススキと黒い土に吸い込まれた。
 ミサトちゃんがいなくなった。

 冬の青空は寒さを強く感じさせる。雲ひとつない空に吸い込まれそうだった。
「フミオはばかだなぁ」
 ショウゴくんが僕を小突く。
「本当なんだよ。ミサトちゃんがいなくなってたんだ」
「どこがだよ」
 ミサトちゃんが消えた日の翌日。集団下校の中には変わりないミサトちゃんの姿があった。
「おまえ、嘘つくのはよくないぞ」
 僕はそれ以上言い返すことができなかった。現にミサトちゃんは僕たちの目の前にいるのだから。
「それより、フミオたちのとこにはナットはあったのかよ。俺たちはあれから探しても一個も見つからなかったぜ」
 僕たちも同じだよ、と言おうとした時だった。
「あったよ」
 僕を遮るようにミサトちゃんは言った。
「私が案内するね」
 そう続けると、昨日の空き地に入っていった。
 僕たちも後に続く。ススキをかき分けて進んでいく。昨日の足跡がまだかすかに残っていた。霜のせいで水を吸った地面がぐちゅ、と音を立てた。ミサトちゃんは構わず進む。
「まだ?」
 ミチくんが声をあげる。
 草の青っぽい匂いに紛れてプラモデルの溶剤のような臭いが混ざった。
 寂れた工場が現れた。外に面しているせいか、鉄骨の屋根が赤く錆びている。工場の奥は暗い。床にはタイヤの他に図工室に置いてある工具が散らばっていた。
「こんにちは!」
 僕たちが呆気にとられていると、ミサトちゃんが奥へ声をかけた。
「こんにちは!」
 背中の毛が逆立った。返ってきた声はそのままミサトちゃんの声だった。音の反響ではない。声は工場の暗がりから真っ直ぐ僕たちに呼びかけていた。
「お友達を連れてきました!」
「お友達を連れてきました!」
 ミサトちゃんの声を模倣した何かがいる。僕を含む「お友達」はただそれを受け入れるしかなかった。
 ふと、ミサトちゃんがミチくんの方を向いた。ミチくんの手はミサトちゃんのスカートの裾をぎゅっと掴んでいる。助けを求めているのは明らかだった。
 ミサトちゃんはミチくんに微笑んだ。口角をゆっくり持ち上げ、目尻を溶けるように下げる。笑顔に変えるのをもったいなく思うような動作だった。
「誰に会いたいですか?」
 ミサトちゃんはミチくんを見つめながら暗がりに問いかけた。
 沈黙が僕たちを包む。数十秒が長く重たく感じた。
「誰に会いたいですか?」
 しばらくして暗がりから這い出るように声が響いた。
 僕たちはショウゴくんに視線を向けた。
 少し鼻にかかったような声はショウゴくんのものだった。
 一斉に見つめられたショウゴくんはたじろいだ。目には困惑の色が浮かんでいる。
「俺は一度もこんなとこ来たことないのに」
「ショウゴさん」
「なんで俺の声が聞こえるんだ」
「時間ですよ」
 ミサトちゃんが言った。心なしか目の奥に暗さを宿しているようだった。
「いやだ、いやだ」
「ショウゴさん。あなたのお母さんは本当にあなたを愛していますか? 夜中に目を覚ましたあなたが、襖の向こうに知らない男の人を見たのは嘘ではないと言えますか」
「それは」
「昔は手作りのおやつを作ってくれていたのに最近はデパートで買ったお菓子に変わっているのは嘘ではありませんね?」
 いつの間にかミサトちゃんの顔はショウゴくんに張りつきそうなほど近づいていた。そのままミサトちゃんが頭から丸呑みにしてしまうのではないかと思った。
 年上で威張りん坊のショウゴくんは影をひそめ、生気を失った老人の表情に変わっていた。
 この時になってまた僕の頭はふわふわした。
 昨日僕の前から消えたミサトちゃんは、この工場にたどり着いた。きっとおばあちゃんを直してもらうように頼んだはずだ。暗がりにいるであろうナットつめつめ男に何度も頭を下げただろう。おばあちゃんが元通りになるのを夢見てミサトちゃんの名前を忘れないように。
 でも……直してもらったのは……。
 ミサトちゃんの方じゃないのか?
 ショウゴくんへ話しかけるミサトちゃんは僕よりも年上に感じたのはナットで調節されていたから?
 ナットつめつめ男はミサトちゃんの頭をいじって僕たちを呼び込むエサにしたんじゃないのか?
 何のために?
 僕がまとまらない考えを巡らしていると、ショウゴくんの悲鳴がこだました。
 ショウゴくんはふらふらと工場の奥へと向かっている。
「……嫌っだ! たすけて! こわい、こわいこわいこわいこわい! 母さん! 行きたくないよ!!」
 ショウゴくんは首を僕たちに向けて必死に叫んでいる。延命するように廃機械に手を伸ばそうとするが、わずかに届かない。足はつ、つ、と闇に歩を進める。
 ショウゴくんの足が暗がりに入る。昔、テレビで見た鏡に取り込まれるシーンのように闇はショウゴくんを中心に波打つと、身体を取り込んだ。
 その瞬間だった。
「あ」
 ミチくんが声を洩らした。
 僕の心臓も飛び上がった。
 ショウゴくんが見えなくなる刹那、枯れ枝の束が背中を抱いているのを見た。
 指だった。本数は人のそれよりもはるかに多い。
 その光景は僕の脳裏に今でもこびりついている。黒く光沢のない爪は包丁のような鋭さがあった。肌はくすんだ灰色で関節には幾つもの指輪がはめられていた。
 指たちにはそれぞれ個性があった。背中に触れる指はいちばんシワが深く、おじいちゃんおばあちゃんのようだった。その隣は蝋人形のようにシワひとつなかった。下の方、ショウゴくんの腰あたりに触れる指は毛深く、白い産毛に覆われていた。
 僕は指たちが、別の時代からより合わさったパッチワークのようなものなんじゃないかと思った。もしかしたら大好きな指を僕の時代に探しにやってきたのかもしれない。
 いつのまにか重たい闇は消えてなくなり、工場に夕陽が差していた。
 ショウゴくんのいた場所では錆びた鉄パイプがオレンジ色に染まっている。風が吹くと、からんからん、と音を立てて奥に転がって消えた。
 帰り道。ミチくんとミサトちゃんは一言も喋らなかった。僕も声を出せば、またあの指が迫ってきそうで黙っているしかなかった。

 今日、僕は5時に起きた。布団からはみ出た両足の冷たさに目が覚めてしまった。
 階段を降りると、野菜とソーセージの焼ける匂いがした。母さんはもう起きて父さんと僕のお弁当を作ってくれていた。
「おはよう、早いじゃない」
 母さんがフライパンに目を落としながら話しかけてきた。僕は曖昧に返事をしつつトースターで食パンを温める。
 こたつでマーマレードを塗った食パンにかじりつく。オレンジの酸味とパンの香ばしさが口いっぱいに広がる。
 しばらく咀嚼しているうちに気配がした。振り向くと、横にミチくんが立っていた。夢でも幻でもなく、そこにいた。けれど不思議と怖くはなかった。電車が駅に着くようにあらかじめ分かっていたような気がしたからだ。
 ミチくんは天井をずっと見つめていた。
「よそ見してないで支度しちゃいなさいよ」
 母さんがそう言うと、僕の前にお弁当の余ったおかずを差し出した。
「うん、ありがとう」
 再び振り返ってもミチくんはいなかった。

 カーテンの隙間から光が差している。自分の部屋に戻ると6時になっていた。
 僕はタンスからジーンズと赤色のセーターを取り出す。下を履き替え、パジャマを脱いで上も着替える。セーターの首から顔を出すと、ミサトちゃんがドア近くにいた。ミサトちゃんは昨日と同じ服で体育座りをしながら天井を見つめていた。
「上に何があるの」
 僕はミサトちゃんに尋ねた。
「〈渦〉だよ。この時代の指がなくなっちゃったでしょう? だから明日も昨日も来月もみんな今に存在するようになっちゃった。ここは色んな時間の混ざった渦になっているの」
「もっと分かるように言ってほしい」
「引き出しに例えればいいかな。引き出しって入れ物が今。そこに詰まった鉛筆や消しゴム、ポケットティッシュが未来や過去。引き出しと中身をひっくるめたのが〈渦〉」
 僕はなんとなく分かったような分からないような気持ちになった。でも、一つだけ不思議に思うことがあった。指が時代を表しているというのは工場で僕が想像しただけのものだ。
「フミオくん。あとはお願いね」
 どうしてミサトちゃんは僕がふわふわしていた時の考えを知っているのか──
「フミオー。いってくるよ」
 父さんの声が玄関から聞こえた。それと同時にドアの側で金属が落ちる音がした。床の上を見ても何も落ちていない。ミサトちゃんはもういなかった。

「じゃあ行ってきます」
 ランドセルを背負って僕は玄関を出る。ドアを開けた母さんに手を振り返した。
 空は寒々しい青に染まっている。吐く息の白さが放射冷却の効果を物語っていた。
 僕は注意深く空を見た。信号を渡るときも、田んぼを横切るときも目だけは上を気にしていた。けれど、ミサトちゃんの言う〈渦〉を見つけることはできなかった。
 通学路に特に変わった様子はない。いつもと変わらない風景が続いている。
 アーケード街を抜けて空き地とブロック塀のある道に差しかかった。
 〈渦〉は僕でも見つけられるのかな。もっとふたりに形を聞いておくべきだった。そう思っていた時だった。
 僕は後ろに転がっていた。
 目の前に立っていた人影に気づき、僕は人にぶつかったのだと分かった。
「すみません」
「あああああ!」
 急なことで驚いた。突然、大人が僕の膝にすがりついてきた。
 その人はスーツを着たサラリーマン風で、灰色のヒゲをもみあげに繋げていた。距離が近くなると、整髪料の香りに混じって血の匂いがした。
 また、金属が落ちる音がした。
 アスファルトの上で指輪が冷たく光った。
 目の前のサラリーマンの唇は裂け、開いた口の中から数えきれない程の指輪が漏れだしていく。
「うわっ!」
 僕は後ろに飛びのく。それはサラリーマンのケガを見たからではない。後ろにいる存在を見てしまったからだ。
 青白い男がいた。上半身がむき出しだ。体格は洋画で見る俳優のような筋肉でたくましかった。逆三角形の身体には想像もつかない力が宿っている。でも、生きる力が感じられない。それはきっと全身に彫り込まれたタトゥーのせいだった。
 男は一直線に歩いてくる。背の黒いカバンからちゃりちゃりと音がした。
 サラリーマンはこの男に狙われているのだ。どうしようもできない動物に襲われて誰でもいいから助けを求めてきたのだ。
 男を遮るものは何もなかった。僕たちまで3メートルほどだった。
 男がひと足で跳んだ。空に見えない手すりがあるのか、空間をたぐり寄せて一瞬でサラリーマンに立ちはだかった。
「……ああ!」
 サラリーマンの最後の言葉はそれだけだった。男に地面に引き倒されると、力の限り殴られていた。肉食獣の獰猛さが襲いかかる。拳を引き抜くたび、男の身体が返り血で濡れた。男は執拗に口周りを狙って殴った。骨のぶつかる鈍い音と粘液の剥がれる音がする。男は折れた歯が自分の拳にいくつ刺さっても意に介していないようだった。
 殴り終わり、男はカバンをまさぐる。抜き出した手には山盛りの指輪があった。それを緩みきったサラリーマンの口にねじ込む。反射的に吐き出そうとするが、男は無理矢理飲み込ませた。
 とても正気でいられるような光景ではなかった。それでも僕が見ていられたのは、ナットつめつめ男の事件を連想していたからだ。僕たちが探していた犯人はここにいる。
 もしかしたら〈渦〉は過去の出来事を再生しているのではないか。
 サラリーマンの腹は指輪ででこぼこに膨らんでいた。仕事を終えた男がこちらに振り向く。僕は初めて男の顔をまともに見た。
 笑っているようにも泣いているようにも見える。頬が削げて目は落ち窪んでいる。僕はその顔に懐かしさを覚えた。
「ショウゴくん……?」
 腰のカバンはランドセルを持ち運びやすくするため小さくしたものだった。
 男は肩を震わせ、嗚咽した。膝から崩れ落ちると凶暴さは薄れていた。僕は肩を抱きしめる。
「こわかた、こわかた」
「怖かったね」
「みんな、ころした。まっくらのなかずっところした」
「このおじさんも?」
「あぁぁあー」
 ショウゴくんは大粒の涙を流していた。
 きっとショウゴくんはあの指たちに連れてかれてから一人で指と戦っていたんだ。長い長い年月を経てショウゴくんは指を殺し尽くした。殺すたびにカバンに指輪を集めた。
 指がなくなって時代の枠もなくなったから〈渦〉に弾き出された。そして、ショウゴくんは何十年もの歳月で、このサラリーマンが指あつめの原因だと突き止めた。だから、ショウゴくんは最後に殺したんだ。
 空想でしかないけれど、僕の中で確信めいたものがあった。ミサトちゃんもミチくんも〈渦〉に飲まれてしまった。けれど、僕がこの考えに至るのを分かってヒントを残してくれたのだろう。
 ショウゴくんの肩を僕は抱きしめる。
「ふみおーふみおー」
 辺りは静かでショウゴくんのすすり泣きだけが響いた。どんな嵐にも耐えそうな身体だったけれど、中身は昨日会ったショウゴくんのままだった。
「怖かったね。学校に行こう」
 手を引いて僕たちは通学路を歩きはじめた。

〈了〉

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