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夜の来ない街

 双眼鏡を覗くと、遠くに灰色の塔が見えた。全体的に砂で汚れているが、塔から伸びるゴジラの頭で来夏は新宿東宝ビルだと確信した。
 方向が間違ってなかったことに安堵した。
 ざく、ざく、と自分の足音だけが荒野に響く。
 どこか雪かきの音に似ている。
 来夏はぼんやりとそう思った。実家は新潟にあった。朝起きたら胸まで雪が積もっていた。下校時には綿のような雪が落ちてきた。大学進学で上京して以来、寒く険しい冬は、彼女の記憶の中だけで繰り返されている。
 冬は何年も来ていない。
 世界は突然、三つの台風で終わった。
 ひとつ目の台風はオーストラリア大陸と同じ大きさで、もうふたつは太平洋と同じ大きさだったらしい。
 来夏は来た道を振り返る。
 砂上の足跡は風で消えつつあった。
 遠くには子どもが食い散らかしたケーキのようなビル群と灰色の砂漠が広がっている。
 マッドマックスじゃん!
 きっと瑠衣なら、そう口走る。素直すぎて口に出したら恥ずかしくなる感想を、彼は臆面もなく言う人だった。それは彼がホストだったからかもしれないし、素でそうなのかもしれない。薄っぺらく感じてるはずなのに、眠るまで可愛いね、お姫さまみたいと言ってくれる時だけは自己嫌悪感が薄らいだ。
 来夏は頭を振って記憶を冬に戻した。
 変わり果てた東京の景色よりも、記憶を辿っている方がまだ心が安らいだ。
 しばらくすると夕陽が照りつけた。
 来夏は背負っていたバッグから日焼け止めを探す。ピンク色のブランドバッグはネオンよりも陽に晒されている時間のほうが長くなっていた。
 日焼け止めは、バッグの底にあった。
「空じゃん……」
 来夏はフードを目深に被り、薄手のマフラーを目元まで引き上げた。崩れたビルの窓ガラスの反射をいくらか和らげてくれることを願った。
 来た時よりも砂の量が増していた。低反発のベッドのような足場は、ゆっくりと疲労を足全体に蓄積させる。
 横になりたい気持ちを振り払う。瑠衣の店を見つけるのが先だった。
「ね、来て!」
 底抜けに明るい女の声がした。前方を見ると、ひょっとこのお面が、こちらに手を振っている。レースで飾られた黒いワンピースが風で揺れる。
 後ろには、砂に半分埋まったTOHOのエスカレーターがあった。
「映画、見られませんでした!」
 ひょっとこ面はそう言うと、豪快に笑った。
 来夏は舌打ちをする。
 彼女は亜梨奈と言った。来夏が歌舞伎町を目指してると言ったら、「私もホス狂だった!」と喜んでいた。
 人が死んでも笑ってるくせに、割り箸が上手く割れないと半日泣いているような性格だった。
 亜梨奈は底抜けの体力があった。来夏は映画を餌に、先んじて瑠衣の店を探してもらっていた。
 その亜梨奈を見て、来夏は眉間に皺を寄せる。別れる前の彼女の格好は、機能的なスポーツウェアだったはずだ。
「アンタその服とお面は」
「これ? ほとんど新品だったよ。あっちに沢山あったから来夏も着なよ」
 あっち、と亜梨奈が指差したビルには昔、シーシャ屋とコンカフェが入っていた。
「バカみたい。また風邪ひいても知らないから」
「やっぱアタシたちはこうじゃないと。来夏の今のカッコ、瑠衣くんだって喜ばなくない?」
 亜梨奈はガニ股でおどけて見せる。ひょっとこ面が余計に腹立たしかった。
「別に喜ばれるつもりなんてないし」
「でもエースだったんでしょ?」
 担当であるホストの売上に最も貢献した客はエースと呼ばれた。
「うざ。てか、瑠衣の店は見つかったの」
 亜梨奈は返事の代わりに瓦礫の上を登りはじめる。重たい足を引きずって来夏はついて行った。
「来夏さ、二年もたってるのに律儀だよね」
「いいでしょ、別に」
「タワー飛ぶなんて珍しくないじゃん」
 来夏は唇を噛んだ。
 そうだ。歌舞伎じゃ珍しくもなんともない。
 その日は、瑠衣のバースデーイベントだった。来夏は前からシャンパンタワーを入れる約束をしていた。どんなシャンパンのデザインにするかも二人で決め、最高のお祝いにするはずだった。
 それも、瑠衣の姿を見るまでの話だった。
 当日、瑠衣は他の客と店の前を歩いていた。
 歌舞伎じゃ珍しくもなんともない。
 別に私じゃなくてもいいんでしょ。
 気がつくと言葉が出ていた。
 来夏を見る瑠衣の顔は引き攣っていた。
 気を引きたくてタワーを辞めると言ったら、どんどん後に引けなくなった。追いすがる瑠衣から逃げた。涙がぼろぼろ出てきた。
 瑠衣が来夏の腕を掴んだ時だった。
 台風がやってきた。突風で一回転する来夏の視界の端で、瑠衣と女が車に潰されるのを見た。
「……タワーやんなきゃ進めないんだよ」
 瓦礫の上から来夏は地面を見下ろす。
 歌舞伎は狭い道だらけだ。来夏が見慣れた道も、運転席がぐしゃぐしゃになったアドトラックが横転していた。車体から黒髪のホストがこちらを見て微笑んでいる。胸の辺りには煌びやかな装飾の文字で、「5000万OVER」とあった。自分の存在を示す売上の数字は、今ではどこか空虚に感じた。
 大きな瓦礫を越えて、天井の抜けたビルにたどり着いた。
「瑠衣くんの店の真上。入り口が砂で潰れちゃってたんだ」
 亜梨奈が下にジャンプする。来夏もならって飛び降りる。
 ばふっ、と音を立てて着地した。ざらついた絨毯から埃が舞った。
 埃と砂にまみれている以外、瑠衣のいた店は内装はそのままだった。黒い壁面には「URSULA」と凝ったロゴが施されている。
 ああ、そんな店名だったな。来夏はロゴを眺めてぼんやりと思い出した。
 客もホストもいない店内は、他の廃墟よりも静けさを強く感じた。見せ棚の高級ブランデーたちが時間が止まったように鎮座していた。
 来夏はキッチンを漁る。形の似たグラスを選り分け、亜梨奈に渡す。
 別のテーブルで亜梨奈がグラスを積み上げる。
「できたよ」
「ん……てか、そろそろお面取んなよ」
「メイクが崩れなくて快適なんだよ。おすすめ」
「お面つけたら意味ないじゃん」
「まあまあ」
 相変わらず変な奴だ。そう思いつつ、来夏はメイクした亜梨奈を見たことがなかったことに気づいた。
「後で見せてね」
 来夏が椅子に腰掛ける。向かい合わせに亜梨奈が陣取った。
 テーブルの上には有り合わせのグラスでできた三段のピラミッドが建っていた。
 もうタワーを作れないなら、自分で作ると決めていた。
 亜梨奈がシャンパンを開ける。
 破裂音とともに爽やかな香りがした。
 来夏は、スマホから瑠衣と受けたシャンパンコールの動画を流す。この日のために充電はとっておいた。
 けたたましい音楽とともに、ホスト達が声をあげる。カメラに向かってピースする瑠衣は記憶の中よりも髪が長かった。
 来夏は隣を見た。瑠衣が一緒にいるような気がした。
「よいしょー!」
 掛け声を復唱しながら、亜梨奈がシャンパンを注ぐ。ピラミッドはあっという間に金色の液体で満たされた。
「もっかいやろ!」
 せがむ亜梨奈に乗せられて、来夏はグラスのシャンパンを飲み干した。
「入れ直して!」
 馬鹿みたいに大騒ぎした。埃臭さも寂しさも全部アルコールの中に飛んでいった。
 ひとしきり飲んだ後、来夏はアルフォートを二箱取り出した。
「今日の会計」
「アルフォート貯金じゃん。なつかし」
 亜梨奈が覗き込んで笑った。
 中にはチョコの代わりに札束がぎっしりと詰まっていた。箱が100万円がちょうど入るサイズのため、来夏や夜職の子たちは、給料をこれで貯金していた。
 箱に溜まっていく一万円札の多さに一喜一憂していた日々が懐かしかった。瑠衣に渡しそびれた紙の束は、今日の会計以外に役立たなくなっていた。
「これでおしまい」
「お疲れ様でした」
 亜梨奈が恭しくお辞儀した。
「早く。お面取る約束でしょ」
「えぇ?」
 来夏が先を急がせる。亜梨奈は仕方なそうに面を外した。
 すっぴん以外の亜梨奈を見るのは初めてだった。
「……いいじゃん」
 もっと褒めるつもりだったのに言葉が出なかった。来夏の脳内はメイクの出来より、別のことで満たされていた。
 亜梨奈は、瑠衣といた女とそっくりだった。


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