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陽気な分裂

 ごみだめみたいなバーだったが、別に良かった。入り口に噛みかけのガムがこびりついていたのが、そもそもだめだ。入ってみれば、そら。床は雑巾の匂いがしそうだ。こんな場所で飲もうとするのは、尻を掻いた手でトーストをかじるような奴だろう。まあ、のこのこ来た俺も人に言えるわけじゃないが。
 とにかく、度の強い酒で脳にクレンジングが必要だ。
「逃げたいかい?」
 ほどよく出来上がった俺に声をかけるやつがいた。みすぼらしい老人だ。いつからいたのだろう。
「逃げたいと思ったことは?」
 老人がくりかえす。
 俺に安らげる場所はないのか。なぜ場末のバーで、介護ボランティアに勤しまなければならないのだろう?
「戯言は教会で」
 あっちにいけと手をひらひらする。老人は動く気配がない。
 気味の悪い奴だった。雪原のような白髪は丁寧にワックスをかけ、髭も剃っている。スリーピースのスーツに身を包み、香水までつけている。こいつでも尻を掻くことがあるのだろうか。
「一度でも」
「逃げたいさ。この国でこれに頼ってる奴がどれだけいると思う?」
 茶色の液体が揺れる。とにかくさっさと飲みなおしたい。
 すると、老人が目を細めた。背をたたき、満足そうに頷く。
「私もだよ。君になら託していい」
 言わなかったが、俺は昔からくじ運が悪い。俺はグラスを傾ける。ウィスキーが喉を焼いた。
「遺産相続なら喜んで」
「違うよ。君には私のきらめきをもらって欲しい」
 老人が微笑む。
 釣られて笑ってしまった。
 少しだけ付き合ってやるとしよう。
「それは何かのメタファーで?」
 老人が頭をふると、掌を広げた。
 掌にはガラス玉があった。色はコバルトブルーに輝き、中央の黒は虹彩と見紛う。
「そのままだよ。きらめき……。私の輝かしい青春時代だ。聞いてくれるかね?」
 そう言うと、老人は語りだした。

 あれは私が高校3年の時だった。3月の終わりでも背筋を凍えさせる風が吹いていた。
 私は受験に失敗し、当てもなく電車に揺られていた。
 家にいれば両親からは将来を問い詰められ、見慣れた部屋は私の怠惰を非難する。ほんの数秒でも長く、逃避の時間が欲しかった。
 電車は暖房もついていて効率よく遠くへ運んでくれる。逃避行にはうってつけだ。
 私を知る人がいない場所へ。私が知らない場所へ。
 目を覚ますと、車窓の景色は変わり、知らないバラック小屋や、塗装の剥げたご当地キャラが出迎えた。
「四ツ寺、四ツ寺」
 ここにしよう。特に理由はない。目を覚ましてタイミングが良かっただけだ。
 四ツ寺は澄んでいた。標高が高い場所特有の空気だ。胸いっぱいに吸う。
 駅前を過ぎて散策をはじめた。
 街は死んでいた。平日とはいえ、商店街の半分にシャッターが下ろされ、生き生きしていた頃の街の骨格だけが残されているようだ。
 私は歩き続けるが、人の姿は見当たらない。
 本当は街全体が毒ガスで皆死んでしまったのではないか。
 そう思った時だった。右耳にフッと息をかけられたような気がした。私は思わず飛びのく。
 振り返るが人影はない。息のした方向には路地が続いている。
 路地には冬の日差しが差し込んでいた。
 だが、どこか陰気だ。明るさに対して、雨雲や夜道を照らすヘッドライトの不穏なイメージが重なる。
 初めての感覚に私は戸惑うとともに、魅力を感じていた。
 平次の私であれば見向きもしない。だが、この時は破滅的な考えに囚われていた。将来も見えず、押しつぶされそうな重圧から逃れるために来たのだ。化物に食われるのも悪くはない。
 一歩踏みだす。雨水が溜まっているのか湿気が増した。辺りには吸い殻入れになった花壇や飲みかけの酎ハイの缶がある。
 生活している人間がいる。死んだ街の住人はどんな人間なんだろう。
 私は歩き続ける。時間はとうに30分は超えていた。しかし、路地は途切れない。
 路地にしては異様な長さだ。前を向いて歩いているはずなのに、一向に突き当たりに辿り着かない。一抹の不安を抱く私に風が吹きつける。
 路地の向こうは抜けているのだろうか。
 その疑問がまた私の足を進ませる。
 一歩ずつ確実に。色褪せて青色になったポスターや、風化したポリバケツを過ぎていく。
 それからもう30分しただろうか。変わらず路地を歩き続けていた。
 路地の先は必ず緩く曲がり、完全に先が見通せないようになっていた。
 流石に不安が溢れ出しそうになっていた。土地勘も働かない場所で取り残されたことにやっと気づいたのだ。
 前には路地が続き、後ろには路地が続いている。コンクリ塀と切妻屋根の上には青空が広がっている。無限に続く迷宮に閉じ込められてしまった。
 1時間近く閉塞感のある道をぶっ通しで歩くのはストレスがかかる。耐え難い飢餓感と、圧迫感は私に死を何度も過らせた。
 私は逃げたいだけで、死にたくはなかった。死ねば電車にも乗れない。まだ見たこともない景色も見られない。
 逃げたい。死にたくない。
 死からも私は逃げたい──
 目を開けると、眼前には路地の突き当たりがあった。
 振り返ると、商店街のシャッターがある。
 突き当たりには、吸い殻入れになった花壇、酎ハイの缶がある。
 そしてもう一つ……。
 舶来品の人形が寄りかかっていた。
 人形は朽ちていた。右腕は失われ、服は黒ずみ元の色が分からなくなっていた。顔はさらに酷い。陶器のそれは鼻梁から砕かれ、片目が抉られていた。精巧な出来も相まって野晒しの子供の死体を彷彿とさせる。
 (妾が恐ろしいか)
 人形が私に語りかけた。
 (お前を掬ったのは妾だぞ)
 金属の擦れるような声は笑い声か。
 (ハリボテのお前の人生を本物にしてやろう。手を出せ)
 私は言葉に従い、人形の顔の前に両手を差し出す。
 筋が切れるような音がした後、コバルトブルーの眼球が掌に落ちた。
 (お前が逃げたい時に握るといい)
 そう言い残すと、人形は崩れ落ちた。

 それからだ。夜半に帰ってきた私を母親が問い詰めた。
「あんたこんな時間までどこ行ってたの!」
「予備校」
「ふざけんな!うちにそんな金があると思ってんのか!大体あんたみたいな甘えたガキが生まれるなんて聞いてないんだよ!謝れ!私に謝れ!」
 いい加減ヒステリーに付き合うのは疲れた。
 逃げたい。私は人形の眼球を握る。
「黙ってちゃわかんないだろうが。おい!なあ!?おい!おうぼぼぼぼぼ」
 母親は、目と口から嘘みたいな量の血を噴き出して倒れた。
「うぼぼぼ」

 痙攣を引き起こす母親を見下ろす。私は胸を撫で下ろした。母の死よりも安堵が勝った。
 握った瞬間、大きな陶器の両手が母親の頭を万力のように締めているのが見えた。

 夜が更けた。冷凍のピザトーストを齧って待っていると、玄関から悲鳴が聞こえた。
「ピザトースト。父さんの分も焼けるから待ってて」
「お、おい!どうなってんだ!母さんが死んでるのにお前は!!」
「タバスコはいる?」
「そんな場合じゃないだろ!人が死んでるのも分からないのか。穀潰しが!」
 面倒くさくなった。私は右手を握る。
 父親は赤黒い煎餅になった。
 じっと見ていたら、ピザトーストを食べたくなった。
 それから私は軽食と通帳をまとめて家を出る。
 斜向かいの犬が旅の行く末を言祝ぐように吠えた。
 私は微笑み、眼球を握る。陶器の足は斜向かいの家を木屑に変えた。
 もっと試したい。不思議な好奇心に突き動かされていた。
 逃げたい気持ちがさらに強くなったらどうなってしまうんだろう。期待に胸を膨らませて、予備校の前に来た。
 私が逃げたくて仕方のない場所といえばここだ。
 受付を通り、自習室に向かう。
 ガラス戸越しには浪人生たちが問題集を解いている。聞こえるのは、シャープペンシルの筆記音と紙を捲る音だけだった。
 私は受験番号がなかったあの場面、両親の顔を浮かべながら眼球を握る。
 陶器の腕はどんな光景を見せてくれるのだろう。私の胸が高鳴る。
 肉のつぶれる音は、聞こえてこなかった。別の握り方をしても、景色は変化しない。
 眼球は私の呼び掛けには答えてくれない。
 私は掌を開く。
「ウッ」
 思わず呻いてしまった。眼球は澄んだコバルトブルーが濁り、赤みを帯びていた。それはまるで何日も夜を徹した作業員を思わせる。
 私は直感で、眼にもクールダウンの時間が必要なのだと分かった。

 次の日。近所のビジネスホテルで私は目覚めた。
 枕元を見やる。眼球は澄み切った青に戻っていた。時計は11時を示し、チェックアウトまですぐだ。
 私は急いで朝食を摂り、ホテルを出る。予備校へと先を急ぐ。
 好奇心は視界を危うくする。
 黒いアウディが路肩に止まっているのに目がいかなかった。
「そんなに急いでどこ行くの。オニーサン」
 車道から声を掛けられた。と気づいた時には遅かった。車の天井が見える。禿げ上がった男の顔が視界に入った。剃り落とされた眉毛の下の目は猛禽類のそれだった。
 早く、眼を握らないと。
 男の腕が首に絡みつく。世界が暗くなった。

 その老婆はマダムエルフィと呼ばれていた。
 街で複数の占い屋と金融業を経営しており、行く場のない人間を住み込みで働かせていた。昨日、男たちは私が預金を全額おろしていた場面を見ていたらしい。
「預金を根こそぎ下ろすやつなんざウチがうってつけさ」
 マダムエルフィは黒いルージュを歪ませ笑う。
 私は寮の中で階級が一番下だった。仕事といえば、各階の便所掃除と廊下清掃だ。
 黄ばんだ便器を擦りつづける。水で薄めたサンポールをかけてブラシを動かす。決して綺麗になることなどない。祈りに近い行動だった。
 不思議と逃げたくならなかった。むしろ当て所もなく放浪しつづけるよりは目の前の便器に集中してさえいればいい。人はやるべきことが多いと目が眩んで夢遊病者になってしまう。受験、就職、なんでも。
 その点、便器に祈りを捧げるのは自我を取り戻すのに最適だった。
 ある日の夜。マダムエルフィは私の性格を見抜いたのだろう。大振りのサバイバルナイフとともに新たな仕事を与えてくれた。
「いいかい、よくお聞き。これから行く場所で青い作業着を見たら迷わずこれを振りな。いいかい、青い作業着だよ。間違えるんじゃないよ」
 マダムが私の頬を二、三度値踏みするように叩くと、アゴで合図をする。3台の黒いバンが寮の前に止まる。中には男たちが満載だ。あの禿げ上がった男が運転手を務めていた。
 私はナイフを腰に差し、バンに乗り込んだ。右手に眼球を握りしめて。
 廃倉庫では錆びた鉄骨が見下ろす。破れた屋根の隙間からは三日月がのぞいていた。
 青い作業着の男たちはすぐに現れた。手には鉄パイプや植木鋏などさまざまだ。
「ババア出せや!」作業着の男の一人が叫ぶ。
「すいません今日は喘息がひどくマダムは」
 禿げ男が応対する。青作業着たちがドスの効いた声がこだまする。
「ふざけんじゃねぇぞ」「はよ出せや」
「ウエノさんが1000万持ってババアのとこで消えてんだぞ」
 衝突は突然起こった。
 作業着が投げた金属バットが、私の隣の顔を潰した。
 そこからは血みどろの殺し合いだった。もみくちゃになって赤と青のマーブルが出来上がった。ブラシの汚れを落とすのをイメージしながら、私は何度もナイフを振った。青作業着の腹に刺し、一文字にぐいっと引く。白い内蔵がぶりんと出た。
 青い作業着を見たら振り下ろす。片目を抉り出す。絶叫する。
 青い作業着を見たら振り下ろす。馬乗りになった首に刃を押し込む。左の掌底で刃の背に体重をかける。ざくっ。
 将来のことを考えずにその場で未来が決まるのは心地よかった。私はギャンブルはやらないが、一瞬のひりつく感覚はきっと同じなのだろう。金が溢れるか血が溢れるかの違いしかない。
「オババの見込み通りだね」マダムは傅く私の頬を撫でた。

 私はマダムお抱えの掃除屋として働いた。三年間にライバル金融の一家、借金で首の回らなくなった女たち、占いカルト集団、その他もろもろはナイフの錆となった。
 良心は痛まないのか。
 マダムエルフィがやれ、と言えば関係ない。没頭できれば何でもよかった。

 だが、それも突然終わりを告げた。
 マダムエルフィが死んだ。
 私がいつものように扉を開けると、安楽椅子にマダムが腰掛けていた。西陽に照らされた顔は恐怖で固まったままだった。椅子の下に血溜まりができていた。絶えず世話をしている百合の花瓶は割れ、オーク材を濡らしている。
 私は眼球を握りしめた。再び宙ぶらりんの毎日を送ることが恐ろしかった。
 ばりばりと音が響く。シーリングファンから土埃が落ちる。
 陶器の掌が迫る。

 瓦礫から這い出た。砂や木片で口内が乾いている。痰を吐く。
 眼球は私を殺し損なった。私は初めてこのガラス玉に疑問を抱いた。
 マダムエルフィという灯火を失った私に幾程の価値があるというのだろう?30秒先しか考えられないこの身を生かす理由が見つからない。
 右手を開く。コバルトブルーの眼球が凝視する。黒い光彩は私を貫通して千里を見通す。
 再び疑問を抱いた。体の向きを180度回転する。
 やはり間違いなかった。
 人形の虹彩は前方を向いていた。行く先を示している。
 私は再び歩きはじめる。
 お前が新しい灯火になってくれるのか。
 虹彩が十字路で右を向けば曲がり、左を向けばその通りにした。
 何度か曲がり道を経て、眼球はある場所を見つめる。
 目の前には花屋があった。
 私がマダムエルフィの部屋を片隅に思い起こしたのは、百合の香りによるものだった。
 レジ前に男女がいた。私の視界からは女の笑顔が見える。会話を楽しんでいるようだ。
 男が振り返る。大きな百合の花束を抱いている。
 俺を拐った禿頭の男だった。会話の笑顔の残滓が消え、驚きにすり替わる。
「おまえ……」
 右手の眼球が震えた。
 男がこちらに歩み寄る。ジャケットの懐に手を伸ばす。
 振動は強さを増す。右手から溢れそうになる。
 私は反射的に握りしめた。男が拳銃を抜く。
 その時だった。
 滑らかな白磁の拳が降ってきた。落雷のような音がつんざく。まず花屋のストライプの屋根がひしゃげた。天井を見上げる女が見える。ついさっきの私はこう見えたのだろう。女の顛末は百合に消えた。次に男の脳天に中指の第三関節の山が落ちる。瞬く間に地面にめり込む。
 私の足元に腕が落ちた。拳銃を握ったままじっとしている。主人を失った姿は私とそっくりだった。
 眼球は私にマダムの仇を取らせたかったのだろうか。男が死んだ今では分からない。
 ただ、私から逃げたい心が生まれる限り、眼球は私を離さないとだけ分かった。
 赤青の雫にぷっかり浮かぶ虹彩は、別の方向を向いていた。
 一本道が真っ直ぐ続く。信号機が青に変わった。
 そして流れ流れて……。

 最後まで話した老人は席を立った。
 表情は自分の使命を全うした巡礼者のようであり、星の消えた惑星の最後の生き残りのようでもあった。
 老人の語りを信じるとしよう。
 だとしたら、今度は俺がこのビー玉の世話をしなければならない。眼球様の思し召しなのだろうな。
 本当に?
 酒は俺の思考を危うくしていた。
 だとしたら、俺を振ったあの女もぺしゃんこに?
 俺は代官山駅前のタワーマンションを見上げる。
 足は明け方の東横線に向かった。渋谷をすぎ、代官山に着くのに時間はかからなかった。その頃には酔いは少し醒めていた。
 懐から眼球を取り出す。玲瓏な輝きの中、瞳はマンションを捉えている。
 受け入れられない運命なら逃げてしまえばいい。
 泡のような人生に窒息するなら逃げてしまえばいい。
 厚い雲を突き破る。薄明光線の髪が垂れる。
 (おわり)

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