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地雷拳(ロングバージョン)

 診察室の天井には採光窓がはめられていた。薄い病院着に光が差す。満月を眺めながら、姫華は相手の反応を待つ。
「見事です」
 しばらくして医者は言った。頭のレントゲンには弾丸が写っていた。
「どこまで覚えていますか?」
 姫華は順を追って話す。ホストクラブで遊んだこと。帰り道で銃口を向けられたこと。
「誰が銃を?」
「あ……」
 訴えようにも声が出なくなっていた。喉が詰まっているわけではなさそうだ。咳すら出ず、混乱した。
《待って》
 頭の中に声が響いた。姉の声だった。さらに動揺する姫華を医者が心配そうに覗きこむ。
「安静にしましょうか」
 白衣の腕が押さえつけた。医者は注射器を取り出す。寒々しい液体の青に、姫華は戦慄する。
《奥歯を噛むの》
 注射針が皮膚に潜りこむ。液体が押し出される前に、姫華は覚悟を決めた。
 奥歯が軋んだ。視界がぼやけ、何かが乗り込む。
  姫華は無意識に立ち上がっていた。
 右腕を引いて医者に狙いを定める。そのまま腰を捻り、正拳突きをぶち当てた。
 医者の顔がべろりとめくれあがった。中から板金とコードが露わになる。
 拳の皮が剥がれている。
 姫華は傷ついた拳をまじまじと見た。
《カラテチップの力よ》
 聞き返す前に身体を引いた。びゅんと足刀が鼻先を掠める。
「その弾丸。如月博士の遺物だな」
 医者──白衣の機械男が構えた。
「俺はHG-16。マローダーだ」
《覇金グループは私の技術を盗み、暗殺部隊を造った》
「チップを渡せ!」
 機械男が飛んだ。姫華は肘で裏拳を弾く。さらに拳が迫った。
《奴らから全て奪って》
「どうして私なの!」
 叫びながら姫華の腕が連撃を処理する。
《お金。いるんでしょ?》
 一瞬、身体が強張る。頭の中を鷲掴みにされるような感覚がした。姫華はホストの彼にナンバー入りさせる約束をしていた。
 互いの拳が顔面を打ち、距離が開いた。
「頃合いか」
 機械男は口端のオイルを拭い、頭にチップを差し込む。
《あれは塔のカンフーチップ!》
 両眼が怪しく発光した。
 機械男が急接近して蹴り上げた。受け止めきれず、採光窓を突き破った。
 病院に影が落ちた。空中で目を見張る。
 夜空を巨拳が覆い隠していた。
 黒い。それは夜空のそれとは違う。圧迫感を伴う死の存在感だ。
 拳が轟々と音を立てて落ちる様は、飛行機の墜落を姫華に想起させた。
 現実と虚構の境目が曖昧になる。
 姫華は悪寒に震えた。原始的な恐怖だった。
《姫華!》
 脳内で姉が叫び、我に帰る。
 窓ガラスをまといながら、下からマローダーが接近していた。裏拳が空気を裂く。
 空中で避ける術はない。姫華の思考よりも早く衝撃が脳を揺らす。強い力で地面に引っぱられた。視界の上下が何度も入れ替わり、洗濯機に入れられたようだった。身体に木の枝が当たり、べきべきと折りながら地面に叩きつけられた。
「ごは……」
 気づけば、背中には硬いアスファルトがあった。空気が肺から全て抜けて息ができるまでに時間がかかった。
 砂を潰す音がした。
 機械頭が、姫華を覗き込んだ。
「5階から落ちたというのに……まだ生きているのか。厄介だな。カラテチップというのは」
 マローダーは言った。
 こっちだって好きで生きてるわけじゃない。
 そう言いたかったが、姫華の潰れかけた喉は言うことを聞かなかった。
 そのはるか向こうの空には、変わらず巨拳が浮いていた。
「起きろよ。やるんだろう」
 容赦なくマローダーは下段蹴りを放つ。
 姫華は地面を転がる。
 病院は山奥にあるようだ。黒い塊となった木々が白い病院を取り囲むように生えていた。
 立ち上がって構え直した。全身に力を込め、痛みを誤魔化した。
《身体は大丈夫そうね》
「そんなわけないでしょ」
《チップはあなたの回復力を高めてくれてる。首が飛ばなければいくらでも》
「無茶苦茶だ」
 どれだけ痛くても死ねない。永遠の呪いにかけられたようで背筋が粟立った。
「クソが……」
 固めた拳が緩みかける。
 何よりも恐ろしいものは他にあった。
 なるべく見上げないようにしていた。影はどんどん大きくなる。
 空に浮かぶ拳だ。さっきよりも大きさを増している。着実に落下してきているのだ。
「ファフロツキーズ……」
 マローダーは見透かしたように言った。姫華は首を傾げた。
「知らないか」
 ぶん
 空気が引き裂かれる。
 マローダーの凶暴な拳が鼻先を掠めた。
 確実に速度が増していた。打撃を捌くだけで腕にダメージが溜まっていく。
「教えてやろう。雨のように魚や蛙が降ってくる。原因不明とされる現象だ。イタリアでは血が降ることもあった。俺は血もカエルも降らせない。ただ、拳を降らせる」
「ありえない……」
「お前のような奴から死ぬ。カンフーの奥義は理想の成就にある」
「成就?」
「八極拳が強くなるために震脚を得たように、自然生物から蟷螂拳が生まれたように、各々が持つ理想を現実に結びつけるからカンフーは最強なのだ」
《……奴にとって破滅こそが理想なんでしょう》
 姉は納得しているようだった。
「破滅?」
《タロットカードは知ってる?》
「それが何?」
《マローダーのチップには【塔】が描かれていた。塔が意味するのは破滅……》
 破滅と言われて浮かぶのはただ一つしかない。
 また、巨拳が大きくなっていた。
 空ごと落ちてくると錯覚してしまう。このままいれば、確実に姫華自身の命を奪う。疑いもなく、目の前の事実が証明していた。
《ここは撤退するしかない》
 マローダーの拳を肘で受ける。衝撃が大きい。勢いを逃すために一歩引いた。
 チップの影響だ。先ほどよりも鋭い打撃が防御をしても骨に響く。
「残り7分」
 腕時計を見ながら機械男は言った。
「残された時間?」
「いかにも。このまま戦えば俺たちはペシャンコになる」
 巨拳の影は病院をすっぽり包んでいた。
 「見ろ」マローダーが指差す方向には駐車場がある。闇夜の向こうに小さな赤いランプが灯っていた。
「お前が生き残る道を教えてやろう。向こうにバイクがある。そいつで山を下ればお前の勝ちだ」
《退くしかない》
 それしかない。こんな山の中で、病院着のまま死ぬなんて考えただけでも、ぞっとする。わざわざ逃走経路を作ってくれたのなら使うまでだ。
「いいのか?」
 マローダーは逃げようとする姫華に言った。
 白衣から何かを取り出した。
 姫華は目を見開いた。
「あたしのスマホ……!」
「大切なんだろう?」
 鋼鉄の指が、黒い板を挟む。少しでも力を入れれば真っ二つになるのは明らかだった。
 人質をとる真似に姫華の血管が沸騰する。
「テメェ……!」
 姫華が右足で前蹴りを放っていた。
 スマホは姫華にとって全てが詰まっていた。シャンパンコールを撮った動画、ホストとのLINE、アフターに行った時の写真。クソみたいな現実と自分を繋ぐものたち。失うわけにはいかなかった。
 マローダーは姫華の蹴りを左腕でいなした。そのままマローダーは右掌底を放つ。速い。姫華は寸前で片腕でブロックした。びりびりと痺れる。もろに食らっていれば骨が折れていたはずだ。
《今はあなたの命が大事。死んでは元も子もない》
「いやだ! あの中にはあたしの命がある!」
「ならば、カンフーデスマッチといこうか」
 マローダーの拳速がさらに増した。打撃の豪雨が姫華に浴びせかかる。
 処理しないと死ぬ。それは頭で分かっていた。
 だが、身体が思うように動かない。
 奥歯を食いしばる。でたらめに身体を守った。
 姫華の頭は恐怖と焦りでぐちゃぐちゃだった。自分が見渡す限りの場所、病院一帯に巨拳が迫っているのだ。天井が迫ってくるのを想像すればいいだろう。超質量が否応なく着実にゆっくりと落ちてくるのは、死の具現化と言って大差ない。
 私は死ぬ。
 実体を持って死を感じていた。背中に汗の玉がびっしりと浮かんでいた。
「無様に死ぬがいい」
 流星の如く、乱打が姫華の身体を撃つ。横腹にマローダーの鉄拳がめり込み、胃の中を戻しそうになる。
「ぬん!」
 マローダーが裂帛の気合いを放つ。銀の光線が水平に描かれた。
 首を刎ねる手刀だ。姫華が崩れかけたのが幸運となり、頭上を通過した。
 雷が落ちるような音がした。
 背後にあった大木がゆっくりと軋みながら倒れた。
 鈍く重い痛みが姫華の全身にじんわりと広がった。
 倒れてしまえば終わりだ。歯を食いしばった。
「破滅を受け入れろ!」
 姫華はサンドバッグと化していた。マローダーは、ほくそ笑んだ。実際には眼光による微妙な陰影がそう見せていた。
「俺はこのクリニックを覇金の親父からもらった。そりゃあたくさんの奴を救ったもんさ。殺す時のためにな、やってんだ。俺はいま、こんなに救った善人の俺がどうして死ななきゃならない。そう思うほど、力が湧いてくるんだ」
 マローダーはこのまま戦えば自分が破滅すると分かっている。だからこそ強かった。
 絶対に破滅が待ち受けているのを受け入れる。その代わりに、偶然を必然に変えて巨拳を降らせるのが塔のチップだった。
 なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
 限界が来ていた。姫華の細い脚が震え、膝をついた。
「残り5分。どうやらデスマッチは俺の勝ちだ。カラテチップでいい気になったのが間違いだったな」
 痛い。怖い。死にたくない。早く死にたい。勝てる気がしない。姫華は感情の渦に落ちていた。
 姉がため息をついた。昔を思い出した。姫華がいじけるといつもそこから始まる。
《龍斗くんはいまナンバーいくつなの?》
 龍斗。姫華が推すホストの名前だった。
「6……」
 下から数えた方が早い。
《あなたはどうしたいの》
 昔から変わらない冷たく突き放したような声だ。
 姫華は深呼吸した。きっと今、馬鹿みたいに情けない顔をしているんだろう。
 思考を研ぎ澄ます。
 龍斗はまだナンバー入りしたことがないし、姫華自身もエースになっていない。夢はまだ叶えていないのだ。龍斗のためにシャンパンタワーをあげ、バースデーイベントでキラキラに輝く伝票で支払うんだ。飾りボトルを何本だって入れてやる。龍斗は白い歯を見せて笑うんだ。隣に座るのはあたしだ。
 彼の笑顔を私はまだ見ていない。
 それには、お金が必要だ。それもでかい額が。
 デカい額。姫華の頭にリフレインされる。
 そういうことか。気づいてしまえばなんてことはない。
「残り4分……」
 マローダーが静かに言い渡す。
 みしっ……
 夜の森に不穏な音がこだました。
 5階建ての病院の屋上が、巨拳で潰されたのだ。
「未熟なカラテチップに引導を渡してやろう」
 マローダーは流れるような動きで構えた。
「死ねッ!!」
 空を切り、掌底を打った。狙いは心臓だ。歴戦のカンフー使いが外す間合いではない。
 だが、マローダーの掌底には暖簾を押したような感覚がした。
 姫華は倒れていない。攻撃をいなされているのだ。さらに追撃の連打を放った。目の前にいる女を死に体にした技を、マローダーは全力で浴びせる。
 水にでも打ち込んでいるようだ。
 おかしい……何かが……。
 美しく回っていたはずの歯車の回転が軋む音をたてる。そういう漠然とした不安があった。
「ぬぅっ」
 姫華のカウンターがマローダーの胸に打ち込まれていた。鋼の両脚が拳の重みで、たたらを踏んだ。
「なにが起きている!?」
 明らかに姫華の動きが違った。
「私、気づいちゃった」
 姫華が姉との会話で蘇ったのは去年の記憶だった。
 その時の担当は席についても一度も話してくれなかった。煌びやかな王子様を絵本からそのまま出したような容姿だった。
 姫華が缶酎ハイを注文する。すると、目が合った。それだけだ。彼と2分話すためには、20万のシャンパンを入れる必要があった。
 気がつけばその月の売掛は500万を超えていた。常に刃物が首筋に突きつけられている気分だった。日を追うごとに担当のLINEは冷え、店に行っても舌打ちされる始末だった。自分は存在しちゃいけない。そんな考えが脳裏に付き纏っていた。
 死ぬ気で稼いで、担当に返したあの吐きそうな緊張に比べればいける。
 姫華は空を見上げる。もう怖くなかった。
 巨大な拳が完全に蓋をしていた。今では夜空と変わらない。
「この地獄は生ぬるい」
 マローダーは動けずにいた。姫華が覗き込んだ。
「なんだそれは……闘気なのか……」
 マローダーは震えていた。
「はっははははは」
 姫華は哄笑した。マローダーを見つめる。顔と顔の距離は米粒が入るほどしかない。機械頭の強化レンズが、姫華の息で曇っていた。
 マローダーの目には闘気にしか見えないのだ。映るのは、重たく濁った水が最後に朽ちる前の腐敗の色か。マローダーはそれが破滅の色に思えてならないのだろう。
「ノイズが生み出す幻に過ぎない……!」
 掌底を打ち込む時には遅かった。
 姫華は腰を捻り、右拳を放つ。マローダーの腹部の金属が軋んだ。
 さらに姫華は左足を踏み込み、左拳を放つ。順突きの二連打により、腹部の板金が破壊された。がくがくとマローダーの震えが激しくなった。
 姫華が拳を引き抜くと断線したケーブルたちがスパークした。
《行こうか》
 姉の声に起伏はない。当然そうなるだろうという響きさえあった。
「ちょっと待ってね……」
 白衣の胸元を探り、スマホを抜き出した。
「もらってくよ」
 姫華は踵を返して駆け出した。
 背後で爆発音がした。駐車場までは目と鼻の先だ。影は濃さを増している。バイクのテールランプを頼りに走る。
 巨拳はすでに3階を破壊し始めていた。窓ガラスが砕ける音が警告音のように響いた。ぼろぼろとコンクリート片が落ちてくる。
 マローダーの死の影響か。拳のスピードは速くなっていた。
「あたし、免許もってないよ」
《だから、私がいるんでしょ》
 姫華はバイクにまたがる。姉の言うまま、操作するとマフラーがドゥルンと轟いた。考えるより先に、姉の指示を反射的に遂行する。
《風も何もかもぶっちぎって》
 アクセルを全開にする。ヘッドライトが照らす先をひたすら走り抜ける。
 森の中で立て続けに爆発音がした。
 背の高い木々が潰されているのだ。姫華はニヤついていた。面白くて仕方がない。
 危険なサインだった。売掛と一緒だ。ひりつく時間は過ぎれば過ぎるほど、脳は現実を受け入れようとしなくなる。
《本当に死んじゃうよ》
「やってるよ!」 
 土煙をバイクがかき分ける。マフラーの轟音が耳を聾する。見上げるまでもない。巨拳との距離は頭上3メートルほどしかなかった。
 崖が多い。あちらこちらにある落石注意の標識が恐怖を煽る。いくつもカーブが続いた。姉の手を借りながら、姫華はハンドルを捌いていく。
 馬鹿野郎。あたしは生き残るんだ。
「ねぇ、カラテチップは死なないんだよね」
 姉が何か言った気がする。返答がどうかは関係ない。
 一か八かだった。姉の言葉を聞く前に、ガードレールに突っ込んでいた。スピードは十分だ。衝撃とともにガードレールをぶち破る。
 ショートカットだ。蛇行した道路の崖を飛ぶことで一気に距離を稼いだ。
 飛び上がると、天井のように拳が迫ってきていた。姫華は首を下げる。
 時間がゆっくりと進んでいく。下から冷たい風が吹き上がる。川が流れているのか。ずっと見ていれば、吸い込まれそうな闇だった。姫華は抗うようにハンドルを握った。青白い光が針葉樹を半分だけ照らしている。
 生と死の境目だ。鉄の塊が、越える。
 姫華の頭上に夜空が帰ってきた。
 タイヤが地面に触れ、着地する。サスペンションから衝撃が伝わり思いっきり突き上げられる。姫華は放り出されないように操作する。
 目の前に土砂崩れ防止用のスチールフェンスが迫ってきた。ハンドルをずらし、ブレーキを踏む。
 フレームが擦れ、アスファルトに火花の帯を描いた。数センチの隙間を空けてバイクは止まった。
 姫華が振り返ると、巨拳は消えていた。起伏のあった山は均一にならされていた。三角形の図形が無理矢理、台形に変えられてしまったような不自然な景色だ。じんわりと汗が背中に浮いた。現実に死が迫ってきていたと思うと、生の実感が湧いた。
 目を凝らしても人影はどこにもいなかった。
《マローダーは追ってきていない》
「そう」
 マローダーは、理想を現実に結ぶ力をカンフーと言った。だが、巨拳はもうない。
 あいつの理想はあたし以下だったんだ!
 そう思うと心がスッとした。
 静寂を感じる余裕が出た。岩雪崩が起きる音が遠ざかっていく。鳥たちが狂ったようにめちゃくちゃな方向に飛んでいった。
 残ったのは静寂だ。
 姫華が飛んできたガードレールは土煙で見えない。病院は跡形もなく、すり潰されたのは間違いなかった。
 姫華は病院着で顔を拭う。土煙と血でぐずぐずに汚れた。
「死ぬかと思った?」
 姉は黙っていた。しばらくして《全然》とだけ言った。
 風のせいか少しだけ震えてるようだった。
 ふたたび、姫華はバイクを走らせる。紫陽花色の病院着がはためく。
 満月は変わらず輝いていた。

【続く】

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