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後藤家の目貫には隠し鏨がある物があるというので探してみた

後藤家の始まりは足利義政に仕えた後藤祐乗(1440~1512年)であり、そこから幕末にかけて代々時の権力者(足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など)に仕え、17代、約400年続いた金工の名門。
主な業務内容は、「大判役」という大判の鋳造と、「分銅役」という計量業務、そして「彫物役」という将軍家の刀装具の製造。

そんな後藤家の刀装具の作は「家彫」と言われる。
3代乗真までは鐔などの製作はしておらず、全て目貫や小柄、笄など。
(尚、室町期は三所物がはあるにはあるが目貫と笄の方が多く作られており、三所物が主役となったのは桃山期以降とのこと)
4代光乗、5代徳乗あたりから鐔の製作が始まり、9代程乗、10代廉乗の頃になると、縁頭など揃い金具も作られるようになる。

「町彫」について
一方で1690年頃に後藤家の下地師であった横谷宗珉が後藤家から野に下り独立。片切彫と独特の絵画風の図案など、自由な意匠の彫金を創始して家彫に対抗したのがいわゆる「町彫」の始まりとされている。
という事で刀装具は将軍家の作(家彫)と民間の作(町彫)という事で分けて考えられている。

①後藤家も折紙を発行している

5代徳乗の時に後藤家で集まり先祖の作を鑑定した上で折紙を発行するようになる。
それまでの作は全て無銘作であり、どれが初代祐乗の作で、二代宗乗の作かなどが分からない状態。
刀でも無銘刀に本阿弥家が極めをする事で刀の価値を上げている。
正宗や郷などその好例。
きっと後藤家の刀装具も同じような理由からだろう。(←これは私個人の推測)

ところで刀とは少し違って面白いのはここからで、後藤家では折紙発行の他に、小柄や笄の裏面に「紋光乗 光美(花押)」のように切付け銘が彫られた物がある。折紙と物が別々になるのを避けたのかもしれない。

(画像出典:「御家彫名品集成 著:福士繁雄」より)


更に11代通乗からは折紙発行時に図柄の側面などに「・」と丸い鏨を打ったものがある。
これは隠し鏨と呼ばれており、聞いた話によると代々後藤家宗家に伝わったとされる極帳にいつどこに丸い鏨を打ったのかというのが記されているらしい。

(画像出典:「後藤家十七代の刀装具」より)


中には例えば三所物(目貫、小柄、笄)は普通同じ作者が統一した図柄(龍なら龍)で製作された物を言うが、そう都合よく同じ作者の作が全て揃っているわけではない。
そんな時に後藤家では作者が違えど同じ図柄を集めて三所物として折紙を発行している物がある。
この組み換えは複数行われた物もあるようで、中には例えば目貫に隠し鏨が複数入っている、なんてこともあるらしい。


②「・」の隠し鏨があるか探してみる

という事で先日手に入れた二匹獅子の後藤目貫に隠し鏨があるか調べてみると、なにやらそれっぽいものを見つける事が出来た。
最近健全無比な某伝来品を拝見させて頂いた時にも同じような位置に同じような「・」丸鏨が打ってあったことから、これが隠し鏨である事はほぼほぼ確信している。(ただ隠し鏨について画像を調べても出てこず、勘違いの可能性も充分にあるので鵜呑みにはしないでほしい)

それらしきものが確認出来た場所は以下の赤丸部の側面と、青丸部の側面。

まず赤丸部を側面から拡大して見てみる。

丸い鏨跡が見える。これが恐らく隠し鏨と思われる。某伝来品も同じ大きさのものであった。


次に青丸部を側面から拡大して見てみる。

2箇所鏨跡のような物が確認できる

こちらは綺麗な丸ではなく、ただの疵かもしれない。
しかしここに疵が付く事は考えづらく隠し鏨の一種と思ってはいるがどうだろうか。
2つ跡がありこの両方が隠し鏨だとすると、この2つの目貫は同じ時に製作された一対ではなく、もしかすると片方はどこからか持ってきた物なのかもしれない。
もしくはある時点で三所物に使われていた可能性もあるかもしれない。
因みに裏面を見ると陰陽根ではなく、どちらも4つの力金と陽根が見て取れる。


③終わりに

という事で隠し鏨を見つけたからなんだ、という感じではあるのですが、小さい目貫にこういった宝探しのような要素が入っているのは実に面白く感じました。
後藤目貫をお持ちの方、是非探してみては如何でしょうか。


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↓この記事を書いてる人(刀箱師 中村圭佑)

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