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平等に訪れる死
先日、大きな出来事がありました。小さな頃から知っている近所のおばさんが亡くなった、という知らせを受けたのです。その方は実家の近くに住んでおり、私と同じぐらいのお子さんがいたので、昔から親しくしてもらっていました。
親しいといっても、家族ぐるみで出かけるとか、そこまでの距離感ではなく。挨拶したら笑顔で返してくれて、いつも子どもたちを見守ってくれる地域の優しいおばさん、という存在です。
おばさんとの思い出で記憶に残っているのは、私が小学校から帰ってきた時のことです。私は家に入るための鍵を持っていなかったため、玄関先に座り込み、親の帰りを待っていました。
すると、おばさんから「うちに来ない?」と声をかけられました。私は「もうすぐ親が帰ってくるから大丈夫」と一度断ったのですが、30分以上経ってもそのままでいたせいか、「ほっとけないからおいで」とお宅に招いてくれたのです。
そして「(私の家の)玄関先にお手紙を貼っておいたから、後でお母さんが迎えに来てくれるよ」という気遣いまでしてくれました。
お家の中に入ると、何となく清潔なにおいがしました。部屋はきれいに整頓されていて、緊張したのを覚えています。おばさんはお茶とお菓子に加えて、お子さんの漫画を持ってきてくれました。それは種村有菜先生の「イ・オ・ン」という超能力少女のお話で、「あ!好きなやつ!」とテンションが上がったことを覚えています。
当時の心境としては、慣れない状況への緊張感や、お菓子をもらえて嬉しい気持ちなど、さまざまな感情が混ざっていたように思います。
おばさんは私に過度にかまうわけでもなく、好きに過ごさせてくれました。それが返って有難かったです。
現代の子どもたちは、顔見知りの大人の誘いにも警戒しなくてはならない、窮屈な時代を生きていますよね。しかし当時はもう少し大らかで、温かい対応をしてもらったなあという記憶が残っています。
もう一つのエピソードは、外でご近所の風景を描いていた時のことです。おばさんが「絵上手だね~!すごい!」と優しく声をかけてくれました。実際の絵の腕前は年相応だったのですが、得意げな気持ちと恥ずかしい気持ちと、両方の感情を経験しました。
おばさんは明るくて可愛らしい方で、年齢的にもまだまお若かったはずです。亡くなったという話は、青天の霹靂でした。
死って、突然その人との関わりが断絶されて、呆然としてしまいませんか。でも、ふとした時に思い出を振り返っていくと、少しずつ心が癒されていくように感じます。
「死=終わること」だとしたら、人の本当の死とは、その人のことが忘れ去られることなのかもしれません。"その人のこと"とは、その人自身の存在や、その人が生み出したものを示しています。
例えば、子どもだった私への温かい接し方。私の親族に小さな子どもがいるので、もしその子たちが困っていたら手を貸したいと思っています。その見本のイメージには、おばさんの存在も間違いなく含まれているでしょう。
だから私が故人を思い出せば、またつながれるというか…完全に関係が断たれたわけではないんだと思えるような気がしています。
そして、私には遠方に住む高齢の祖母がいます。会いに行く度に、祖母は身近に訪れた死について話してくれるのです。「同級生も友達もみんな死んだ」「○○町の□□さんは病院で亡くなった、△△さんは転倒してそのまま…」と。
祖母は身近な死を淡々と語りながら、「自分もそろそろ」と口にすることもあります。自分が死ぬことに関して、あまり恐怖心を抱いていないのでしょうか。祖母にしてみたら、周りからどんどん大切な人がいなくなって、孤独なまま生き続けるのもつらいのかもしれません。
でも、私はエゴが強いので「長生きしてね!また一緒に美味しいものを食べようね!」と言わずにいられないんです。
死は誰にでも平等に訪れるので、いつか必ず私も死ぬでしょう。私自身の死は経験したことがないからわからないけれど、他者の死は何度経験しても慣れません。
だから一つ一つの死に遭遇した時の気持ちに、ちゃんと向き合っていきたいなと思っています。でも、あまりにも身近な人の死には耐えられそうにないので、祖母に長生きしてもらえるように、できる限りサポートしていきたいです。