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解決しないもの

その日その日で感じることや、固定されている考え方もあるかもしれないけれど、常に同じということは多分ないと感じる。

だからこそそんな日があったときには、「think」と言う大枠のカテゴリで書いてみることにした。

以前にも自己満足で書いていたが、やっぱり書かされる話ではなくて、自分で書ける話というのはやっぱり楽しいし、好きだなと感じます。

タイトルにもあるように世の中には「解決しないもの」が存在する。

例えば、誰もが体験したことがないもの・ことや、知識が不足していたりなどさまざまではあるが、今現代で解決できないものの代表として

「生と死」について少し個人的な見解で考えてみたいなと感じる。

話は脱線するようでしないが、解決しない問題が出てくるのは、多分人間の脳のせいだと仮定する。

脳は、人間が思っている以上に賢いと僕は思う。
1日の中で人間がとっているアクションや記憶したものを一晩で処理している脳が、どれだけすごいのかは想像もつかない。

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今日の考える解決しないものは「命は有限である」というヘビーなお題

こんなことを考えたことがある人もいると思う…

「明日死ぬとしたら、最後に何を食べたい?」

あるあるとして使われる問いではあるが、これを深く楽しく考えることができるのは、心のどこかで「自分は死なない」と感じているからなのかもしれないし、言語化することはできない。だって、そんな局面に出くわしたこともなければ、本当に死ぬかもしれないから。

実際に体験したことがあるわけではないが、病気になった時、余命宣告を受けた時、人は残りの人生の短さに気づくとよく聞く。

これって、何もない人と病気の人で何が変わるのだろうか?
決して批判したいわけではなくて、純粋に思うことだと自分は思っている。

僕ができた話ではないが、命は有限なのである。
いつ死ぬかなんて誰もが分かっていなければ、明日死ぬかもしれない。

生きている実感が当たり前すぎて、生きているという感覚と死ぬという感覚を養うことが難しい。

じゃあ、何があれば生きている実感を味わえて、死ぬかもしれない実感を味わえるのか。

それは現実味があるかという部分だと感じる。
そこには人と環境がかなり左右されると考えれる。

誰しもが一度楽しいことを覚えてしまったら、楽しいことは頭から離れなくなるし、苦しかったことも案外忘れようと思っても、忘れることができない。

なぜなら実際に現実として在るから。

死ぬかもしれない実感を味わうことができないのは、楽しい何かでもあり、不明な思考を脳が指示しアクションを起こしているからなのかもしれない。

今日はこれをしよう。
明日は今日がこれだったからこういうふうにしてみようかな?と次のことを考えれるように脳が仕向けている。
もちろん論理的根拠はどこにもないので、あくまで僕の仮説だ。

多分生きている実感も死ぬかもしれない実感も、その実感だけにとらわれる感覚があれば実感することができるかもしれない。

危険な環境にいない限りは、明日死ぬと考えたとしてもリアリティがなく、脳も再現することができない。

だから、死ぬと分かったときに初めて生きていたと実感できるのかもしれない。

当たり前に呼吸をして、当たり前に体を動かせるのは、脳が無意識な状態を装っているだけで、一つのことに意識を置くことはできないと思う。

なぜなら生きている限り経験も記憶も知識も格段に増えていくから傾向と対策を立てることができる。

あくまで僕の中での答え合わせにはなるが、生きている実感とは、何か別のことを考えれている感覚のことであり、死ぬかもしれない実感とはそれ以外が頭から離れない感覚のことなのかもしれない。

これがなぜ言えるか?というと、何か一つのことに集中したり、考えたりする時、後々気づくと他のことはほったらかしになってることがある。
脳がその一点に集中したことによる影響だと思う。

生きているというのは、考えれていることであり何気ない日々を送れることが、もしかしたら生であり、一つのことに囚われている感覚が今回で言う死なのかもしれない。

断定的に結論を出せない問いは答えが複数あるし、多分解などない。

世に言葉として認識される時、「世が納得したかどうか」で判断される。

だから、納得される意見が出てきた時、それが一番近い解決しないものを解決できる論なのかもしれないと思う。

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