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東京町田虚無僧寺『探墓行』其の二☆大沢寺


町田市にあったもう一つの虚無僧寺が、梅元山大沢だいたく。前回訪れた南大谷天神社から歩いて20分ほどの場所にあります。町田三天神の一つ、本町田菅原神社の別当寺でした。




虚無僧寺・南松寺についてはこちら↓




南松寺跡の大谷天神社から、恩田川沿いを歩いて行きます。



本町田菅原神社


到着。

本町田菅原神社HPより
参道は桜並木🌸


本殿


かつての虚無僧寺、梅元山大沢だいたく寺は、残念ながら、その遺跡などは不明。場所は現在の本町田菅原神社の鳥居の前、鎌倉街道をはさんだところにあったという。

鳥居の向こう側が鎌倉街道。



丸で囲った辺りでしょうか。
地図は本町田菅原神社HPより。


本町田菅原神社の由緒

由緒

室町期の永享年間、近在の大沢左近正次は、先祖の大沢七郎正純が鎌倉期元応年間に京都北野天神へ詣でた折に得た天神像(大沢家の守り本尊だったと言われます。)を、当地井手の沢の山上に奉安いたしました。
先述の中先代の乱で戦死者累々としたであろう当地に奉安されたということは、想像の域ながら、鎮魂という動機もあったと思われます。また足利将軍家が京都北野社を信仰していたこと、室町期には天神様は冤罪を晴らす神なる御性格が広まっていたこと等も関係しているのかもしれません。
時は下ってその子孫大沢玄蕃(げんば)は、江戸期初頭の寛永7年(1630)新たに渡唐の天神像を刻ませてここに奉安いたし、この地を寄進して本町田の鎮守としたのが当社の縁起であります。 尚、昔の本町田村はとても広い地域でしたが、天正10年(1582)分村が施行されました。本町田村から原町田村、大谷村が分かれ、新たなそれぞれの村は元の本町田村と同じ菅公を鎮守として祀ったのです。村民統治の必要性からであると共に、それ以前より村全体の人々から親しまれていたことを示すものと思います。
享保7年(1722)御本殿が再建され、天明5年(1785)社殿が造られました。
明治35年(1902)国の施策により、千眼天神社、大六天社、七面社、稲荷社、白山社の五社を合祀し、その後も菅公のご神徳と氏子崇敬者の篤い信仰により発展してまいりました。

菅原神社HPより


菅原神社HPはこちら↓




「十二世紀末鎌倉に幕府が設置され鎌倉街道が整備されると、当地は北関東から鎌倉へ通ずる街道の中でも重要な地点となりました。」


虚無僧寺も街道沿いや宿場町の近くにあり、交通において重要な場所にあったようである。虚無僧寺は風呂屋でもあったので、旅人の通り道にあったのでしょう。




「渡唐の天神像」については『町田市史』にさらに詳しく記載があります。

渡唐天神像とは、渡宋とそう天神像とも呼ばれ、中国の服装で描かれた天神、即ち菅原道真の画像のこと。

町田市史編纂委員会編『町田市史』


本町田村には字向村に天神社(菅原神社)があって村の鎮守であった。神体は木彫彩色の神座像で、脇に一木造渡唐天神立像が安置されている。「本町田天神社縁起」によると、この神社はもと一色氏の一族大沢七郎正純という人が京都北野天満宮から分神し、家の守護神としていたのを左近正次の代に永享元年(1429)現地に奉祀したものと伝えている。また渡唐天神像は寛永七年(1630)大沢玄蕃が神奈川宿青木山西向寺の開山寒江清山の作るところを譲りうけて安置したもので、社の脇に梅元山大沢寺を開いて守護したという。



青木山西向寺とは、神奈川県の虚無僧寺『探墓行』で西向寺奉賛会主催の献奏会に参加させていただいた、あの西向寺です↓




『町田市史』には、前回の南大谷天神社のことも記載されています。境内には大沢牛之助らが寄進した石燈籠、五十嵐権兵衛らの寄進した手洗石一つがあるとのこと。これはまた確認しに行かねばです。



以下、神田可遊著「町田三天神と虚無僧寺」を参考に記していきます。




神田可遊著「町田三天神と虚無僧寺」によると、菅原神社の棟札の写しが二つあり、一つは「本町田菅原神社略記」にある享保八年の社殿再建を裏付けるもの、もう一つは天明五年の時のものといわれているとのこと。棟札とは、建物の棟上の際に、建造の年月日や施主・大工などを記して後日に伝えるために作成され、天井の棟木などに打ち付けられた板札のこと。

「別当大澤寺」と記されており、これらのことによって天神社の別当は大沢寺であることが判る。



大沢寺の歴代住職

開山 玄了
二世 了山

天明年間(1781ー89)には禅長という看子(主か)がいたらしい。



開山の玄了は後に大谷村に隠居とあるので、南大谷の南松寺の開山・悟山(墓石は悟心)源了と同一人物であろう。南松寺は当初、大沢寺の隠居寺という性格を持っていたようである。




こちらは大沢寺の門弟印鑑(写)↓

「一閑先生尺八筆記」国会図書館所蔵





そして、

古文書の写し「復飾願写」「復飾願」が神社に保存されている。
日付は明治三年。復飾とは、一度僧籍にはいった者が、もとの俗人にもどること。 還俗げんぞくすることであるが、こちらの天神社に保存されている復飾願は、神田氏の見解によるとそのような内容では無いように思えるとのこと。



復飾願写」の内容は、大沢忠三郎という天満宮の鍵取が大沢玄蕃という由緒ある名前に改名して「神勤社務相続」したい旨、神奈川県に対して、本寺の西向寺、静海謙譲和尚が地元の氏子惣代などと共に願い出たもの。静海謙譲和尚は、鈴法寺の三十三世海我和尚と共に、維新から廃宗に至る普化宗の最終期に、一月寺系寺院の雑務処理をし行った人物。



【鍵取】とは、村落の旧家などで、鎮守の社殿の鍵を預かって祭りのときに扉を開閉したり、賽銭の保管をしたりする役の者をいう。(出典 小学館 日本大百科全書)




復飾願」の内容も、復飾願ではなく、前述の「復飾願写」の顛末をメモしたもののようである。

ともかく、静海謙譲和尚は、明治維新に続く神仏分離の波の中で、天神社別当としての大沢寺の職務を全うさせようとしていた。
そして翌年明治四年、普化宗廃宗の布告が明治政府から達せられたのです。




時の権力者による一方的な宗教弾圧と言えば…、



話は遠くアフガニスタンの事を思い出します。2001年タリバン勢力によるバーミヤン大仏の破壊ことを覚えている人もいるのではないでしょうか。




なんと非道なことを...と当時溜め息をついたものですが、それに似たようなことも日本国内で行われたのですね。

明治元年(1868年)に出された神仏分離令により、全国に廃仏毀釈の波がひろがった時のこと。
特に、興福寺は春日社と一体の信仰が行われていたので大打撃であった。二千体以上の仏像の破壊され、焼かれ、僧侶は還俗。経典は包装紙にされた。五重塔は薪にする為に売りに出され、混乱に乗じ略奪された宝物は二束三文で町方に出回った。その上、鹿までがターゲットとなり鹿狩りが横行、すき焼きにされたとのこと。大きな違いは、バーミヤン大仏はタリバン政権によって強引に破壊を命じられ、住民は泣く泣くそれに従ったのであるが、日本では神仏分離令に乗じて民衆か新政府よりの人々かがそれらを破壊したのである。
普化宗も徳川家康によって付与されたとされる掟書を金科玉条としていて、家康公の権力の下にいたのでは、真っ先に新政府に潰されてもおかしくなかった。江戸幕府末期、弘化四年(1847)には『慶長之掟書』が偽物と認定されており、老中水野忠邦がいなければ、もっと早くに廃宗に追い込まれていたのでしょうが…。

前回の南松寺は、観音像が誰かの手によって隠されていたため、かろうじて破壊をまぬがれたのです。地元の人々に大事にされた観音様だったのでしょう。
いずれにせよ、権力とは恐ろしいものだ。



なにはともあれ、このように虚無僧の遺跡を追跡し、探し出し、書き残してくださった神田さんはじめ研究者や先人の皆さんに感謝です🙏


かつての虚無僧さんを偲ぶことが、今できる最大の文化継承なのではないでしょうか。


菅原神社にて有志の皆さんと「調子」を献笛。



そして、

虚無僧墓マイラーの記録に最後までお付き合い頂いてありがとうございました😊🙏

以上、東京町田市の虚無僧寺『探墓行』でした♪


出典元
神田可遊著『町田三天神と虚無僧寺』
西向寺奉賛会『虚無僧寺 西向寺』
町田市史編纂委員会編『町田市史』

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