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春信、湖龍斎、清長、歌麿の描く『伊達虚無僧姿の男女』


男性は黒の着物に丸ぐけ帯、女性は白い着物姿にピンクの襦袢がちらりと見えたり。鈴木春信をはじめとする江戸時代中期の浮世絵師が描いた『伊達虚無僧姿の男女』。

実際にこんな男女が街を歩いていたらそりゃ、注目の的。

美しい!


今回は、浮世絵『伊達虚無僧姿の男女』に絞って見ていきたいと思います。



因みに、だて【伊達】の意味は、

〘名〙 (形動)
① 人目をひくような、はでなふるまいをすること。また、意気、侠気をことさらに示そうとするさま。
※多胡辰敬家訓(1544頃)「うろんなる人の用に立、だてをし、さぎをからすとあらがひ」
※四座役者目録(1646‐53)上「清五郎の時、ことのほか伊達成る素袍をきる」
② 好みが粋(いき)であること。また、気持がさばけているさま。
※俳諧・信徳十百韻(1675)「内儀まじりに菫つむなり 伊達にこそ裾野ひらしゃら尼衣」
③ 外見を飾ること。見栄を張ること。また、そのさま。
※俳諧・独吟一日千句(1675)第二「伊達をするかくれ笠とてあらはこそ 其蓬莱の嶋原かよひ」
※どちらでも(1970)〈小島信夫〉一「ダテに年をとってはいませんよ」
[補注]「いかにも…らしい様子を見せる、ことさらにそのような様子をする」意の接尾語「だて(立)」が、室町末期ごろより名詞また形容動詞として独立したものか。

精選版 日本国語大辞典

けっこう古い言葉なんですね。


ようは本物じゃない虚無僧のことです。


早速『伊達虚無僧姿の男女』を見比べてみましょう。


鈴木春信すずきはるのぶ

1725 - 1770年


鈴木春信は、木版多色摺りの錦絵誕生に決定的な役割を果たした江戸時代中期の浮世絵師。

細身で可憐、繊細な表情の美人画で人気を博した。


京都に出て西川祐信に学び、後に江戸に住んだといわれる。または西村重長の門人とも伝わる。姓は穂積、後に鈴木を名乗る。通称次郎兵衛。長栄軒、思古人とも号す。江戸神田白壁町(現・鍛冶町 (千代田区) )の戸主(家主)で、比較的裕福だったと考えられる。近所には平賀源内が住んでおり、友人として親しく、共に錦絵の工夫をしたという。宝暦10年(1760年)3月上演の芝居に基づく細判紅摺絵の役者絵「市川亀蔵の曾我五郎と坂東三八の三保谷四郎」が初作とされており、この後亡くなるまでの10年間浮世絵師として活躍した。初期には紅摺絵の役者絵も知られている。宝暦年間はこのような役者絵、美人画の他、古典的画題の紅摺絵、水絵を制作、現在役者絵だけでも30点余り、水絵も30点以上知られている。

錦絵の草創期に一世を風靡したため、多数の追随者を出した。春信の門人に鈴木春重(司馬江漢)、鈴木春広(礒田湖龍斎)、駒井美信、鈴木春次、益信、光信、仲国信など。次代の一筆斎文調、勝川春章、北尾重政、鳥居清長などにも影響を与え、浮世絵黄金期を直接導くものになったといってもよい。

Wikipedia参照




東京都台東区にある、日蓮宗 高光山 大円寺に、鈴木春信の碑がある。


参道

先日の『探墓行』の時に途中にあったため、尺八研究家の神田可遊氏が案内してくださいました。

このお寺には、笠森おせんの碑もある。


 『お仙茶屋』ボストン美術館所蔵

こちらは、春信の描くお仙茶屋。


立命館大学所蔵

白黒ですが、こちらもお仙茶屋。

どちらも、構図に鳥居の絵が描かれています。



おせん茶屋とは、
明和(1764〜1772)頃、江戸の谷中(やなか)の笠森稲荷の前に、鍵屋という茶屋がありました。その茶屋には、お仙という、たいへん美しい看板娘がいました。お仙は明和の三美人の一人として名高く、当時の浮世絵によく描かれています。


笠森お仙(1751年 - 1827)は、実在の人物で、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋やなぎやお藤と人気を二分し、また加藤曳尾庵の随筆によれば、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋つたやおよしも含めて江戸の三美人(明和三美人)の1人としてもてはやされたのだそうな。

1763年ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働き、1768年ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなった。その美しさから江戸中の評判となり、大田南畝が『半日閑話』で、「谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙美なりとて皆人見に行き」と記し、「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで おせんの茶屋へ」と手毬唄に歌われ、お仙を題材にした狂言や歌舞伎が作られるほど一世を風靡し、お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。また、「鍵屋」は美人画の他、手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売していたとのこと。今で言うアイドルっていうやつですね。


「錦絵開祖鈴木春信」

意外と堅苦しい石碑…。


説明板。
「笠森阿仙の碑」


「笠森阿仙之碑」は小説家永井荷風が文章を書いています。

女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。
時恰大正己未夏、六月鰹のうまい頃
荷風小史識 蔦月山人書 田鶴年刻


五大州とは日本のこと。大正八年。



↓記念碑を建設する経緯が詳しくこちらにありました。

https://sakamichi.tokyo/?p=18242


お仙がいた水茶屋「鍵屋」は谷中天王寺の子院、福泉院(現・功徳林寺の位置)の門前にあったのに、大円寺に笠森お仙と鈴木晴信の碑が建てられたのは、大円寺にも笠森稲荷がお祀りされていた縁であるとのこと。



本堂のお堂が二つ繋がった形をしています。珍しいですね。
左側が、ご本尊の日蓮上人が祀られており、右側が笠森稲荷が祀られているそうです。




続いては、


礒田湖龍斎いそだこりゅうさい

1735-1790年


鈴木春信亡き後の安永から天明期(1772-89年)に活躍し、特に柱絵を得意とした。


 

「浮世風俗やまと錦絵 錦絵初期時代中巻」
日本風俗絵刊行会
国立国会図書館所蔵


柱絵なので細長いです。

柱絵は大判続絵の一般化や、人物描写の変化などで衰退していき、江戸時代の文化年間(1804ー1818)頃までには終わりを迎えたそうな。



こちらは柱絵ではない男女の虚無僧。

ボストン美術館蔵

こちらは春信の影響を受けている初期の頃の作品でしょうか。

いずれもバックに木や川など風景が描かれています。


礒田湖龍斎とは、
本姓藤原氏。姓は礒田、名は正勝。俗称庄兵衛。礒田湖龍斎と号した。神田小川町の旗本土屋家の浪人。この小川町の土屋家とは土浦藩主ということになり、「湖龍」の号は旧主の藩地、霞ヶ浦にちなんで選ばれたものかと推定される。両国橋広小路薬研堀に住居する。

西村重長の門人とされるが定かではない。明和年間後期にデビューし、初めは鈴木春広、あるいは湖龍斎春広と号した。鈴木春信の直接の門人ではないが、顕著にその影響を受けた絵師の一人であり、春信没後もその型からなかなか抜けきれなかった。しかし安永年間に入ると湖龍斎と改名し、極端に縦長な画面をもつ柱絵を描くうち、その影響から次第に抜け出していく。肉感を排した春信風の美人画から、現実の肉体を感じさせるたっぷりとした姿態をもたせた独自の画風を確立した。柱絵史上、湖龍斎はその縦長を画面を最も生かした作品を残しており出世作となった。

Wikipedia参照




礒田湖龍斎の描く柱絵四枚並べてみました。


よく見ると、左三枚1〜2のサインが「湖龍」のみ。んん?微妙に雰囲気も違う...。早速、尺八研究家の神田可遊氏に聞いてみたところ、ちゃんとした美術館にあるので本人でしょうとのこと。雰囲気が違うのは年代によって作風が変化していったからですね。

見比べてみると、3のみ左側の男性は髪型が男性ですが、その他が女性の髪型をしています。そしてさらによく見ると頭の上が白い部分があります。女装でしょうか…? 
そしてさらに間違い探しみたいですが、1と2の版はよく似ているようで、違う部分があります。たとえば天蓋の線や襟の線など。バックの雲も微妙に違う。時々、同じ版で全く色を変えてある浮世絵を見ますが、これは模写ならぬ模版?

ま、そんな細かいことはいいのですが..。
気になるといえば気になる。



そしてお次は、



喜多川歌麿きたがわうたまろ

1753 - 1806年


虚無僧姿の男女「故人鈴木春信図」
喜多川歌麿写
1794年 ボストン美術館所蔵


「写」というわりには、春信の画と構図も違うし、あまり似てない…。
アイデアを頂いたって感じなのでしょうか。


喜多川歌麿は美人画を得意とした江戸時代後期の浮世絵師。生年未詳、出生地も諸説あるが、江戸生まれという説が有力。狩野派の町絵師・烏山石燕に師事。浮世絵師としてのスタートは、1775(安永4)年の中村座の富本節正本『四十八手恋所訳』下巻の表紙絵と思われる。初期の作品には勝川派の影響が見られ、鳥居清長風の美人画を描いていた。転機となったのは蔦屋重三郎のもとから出版した狂歌絵本『画本虫撰』(1788)や『百千鳥狂歌合』(1790頃)で、花鳥や虫類を繊細な筆致で描き好評を博した。





そして、



鳥居清長

1752 - 1815年


三人の男女の虚無僧描いてます。


鳥居清長は、鳥居派四代目当主。鳥居派の代表的な絵師。
鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍した。


大英博物館所蔵


また豪華な衣装の伊達虚無僧さんたちだ。

丸ぐけ帯が起毛してます。江戸時代にビロード(天鵞絨)ってあったのかなと調べましたら、16世紀にもたらされ、戦国武将の帽子や外套に使われたものがあるそうです。尺八袋も豪華絢爛。


そして、今までの虚無僧の中で一番尺八が正確に描かれています。
きっと見たことがあるのでしょう。浮世絵の尺八は全般的にいい加減に描かれています。歌口が変とか、穴の位置が変とか、穴の数が多いとか。


ところで、伊達虚無僧は尺八吹いたのでしょうか。そんな史料はないと思いますが、吹ける人もいたでしょうね。




こちらは歌舞伎の役者絵の男女の虚無僧。

鳥居清満画

二代目瀬川菊之丞扮する名古屋(那古野) 山三郎、
九代目市村羽左衛門扮する葛城太夫。
1766年
ボストン美術館所蔵


鳥居派の浮世絵は役者絵の虚無僧が多いです。

春信の『伊達虚無僧姿の男女』は歌舞伎をヒントにしたのかどうなのか不明ですが、どうやら役者絵以外の伊達虚無僧の浮世絵を描き始めたのは、春信からのようです。



正徳5年(1715年)、中村座の『坂東一寿曾我ばんどういちことぶきそが』で、二代目市川團十郎が曾我五郎を演じ、そのなかで"虚無僧"に扮した場面があり、これが大当たりとなったとのこと。

以来、街に伊達虚無僧が闊歩するようになったそうな。
春信もそれを見てアイデアにしたのでしょうか。


歌舞伎を見に行かなくても、流行りの服装で何が演じられているかを知ることができたんですね。今で言うコスプレか。


1758年には、江戸幕府による深編笠の触書が出されています。 


虚無僧使用深編笠ニ付触書  1758年(宝暦8年)10月

一月寺と鈴法寺の両寺で用いている深編笠については、今後それを売買には虚無僧寺の印鑑が必要.


そりゃ、本物の虚無僧にしてみたら、にせ虚無僧が適当にその辺でコム活してたらたまったものじゃないですよね。



さて、『伊達虚無僧姿の男女』色々見てきましたが、


改めて見比べてみると、一番古いわりには鈴木春信の浮世絵は全く色褪せず、かえって一番今風なんですよね、アニメ風というか。


春信の目には、江戸の風景はどのように写っていたのでしょう。


ああ、やっぱりこの頃にタイムスリップして行ってみたい~!


と、切に願うのでした。

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