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遊興系尺八奏者たち☆『四条河原遊楽図屏風』より

賀茂の河原は刑場であった。名のある武将も、名も無き民も、数しれぬ人々がここで首を打たれた。また葬う人のない死体もここに運ばれ捨てられた。
刑場の河原には世間から賤しめられている人々が小屋をかけてすんでいた。すなわち河原者であった。他にすむべきところがないからであった。
こうした河原者のなかに傀儡師や曲芸師や、その他見世物の芸人たちがいた。小屋をかけて興行をいとなむ。娯楽を求めて京の内外の人が見物に集まった。その中心が賀茂の四条河原であった。


上の解説と、画像は『日本美術全集 12 狩野派と遊楽図』からの引用です。


四条河原遊楽図 拡大

泉武夫著の「竹を吹く人々」によると…

「四条河原遊楽図」1600年代前半
中世以来「鴨の河原」はさまざまな芸能興行の場となり、また一方では罪人の処刑なども行われる、いわば都市周縁の異形の空間。近世初期の慶長年間、出雲の阿国(おくに)が北野神社の社頭(神社の付近)にて女歌舞伎をはじめ、やがてその追従者たちが活躍の舞台としたのも、この河原の芝居小屋です。江戸時代前期には、京における幕府公認の遊楽場としてたいそう賑わいました。静嘉堂文庫美術館本は二曲一双の屏風。作風から江戸時代初期元和(1615〜1624)から寛永頃(1624〜1645)の制作とみなされる。
鴨川を挟んだ東西両岸に、竹矢来(たけやらい・竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲いのこと)に筵張りで囲われたさまざまな小屋が立ち並び、人々を歓楽の異空間に誘います。遊女歌舞伎二座のほか、若衆の能、犬の曲芸、大女の見せ物などの出し物が繰り広げられている。
右隻の左下の囲いに尺八吹き
竹囲いの手前、筵敷の中心に若衆姿が一人、尺八を吹き鳴らしている。いっぽう、若衆に対面して女性。頭には立花をあしらった風流笠をいただき、若衆同様、腰に刀を帯びている。どちらも立ち膝姿勢。中心の若衆は先導役ということになるでしょうが、その尺八は褐色、いかにもそれらしいが、女衆のは青竹で本格的とは思えない。



この「四条河原遊楽図」は、2019年にサントリー美術館で開催された「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展にて展示されており、私は二回見ることができました✌️

いや〜、本物は美しかった。

この解説を元に、若衆と女衆の吹いている竹の色もちゃんと見てきました!確かに色は違いますが、もし描いた人が若竹では尺八は演奏しないことを知っていたらかなりのマニアックですよね。

↓その他の絵も色々楽しめました。遊興系の尺八を演奏する人が描かれている「遊楽図屏風(相応寺屏風)」もありましたよ。


また、保坂裕興著の「17世紀における虚無僧の生成」では…

16世紀後半の京都では、町衆が踊組を組織し、毎年七月十五日の盂蘭盆会を期して、人々の目を驚かせる新奇な趣向と仮装を凝らして京中へ繰り出した。彼らは、風流踊としてコモゾウの姿態を取り上げた尺八踊や虚無踊を行っている。

1624年の四条河原の遊楽所を描いた薦僧風流の図は、この芸態を関わっている。毛氈の上には牡丹花・菊・桔梗などの風流笠を載せ、尺八を構える四人の人物がおり、その前方には、立ち膝で尺八を持っている若衆髷の人物とやろう帽子を持った人物計六人が見える。ここでかれらの芸態を推測する鍵は、若衆髷の人物の持物が演奏用の尺八であるのに対し、風流笠を被った人物の持つ尺八が装飾品(風流飾り)である点にある。前者の尺八はほぼ一尺八寸程度の一節切であるが、後者はいずれも、風流笠から露出している部分だけでも同程度かそれ以上の長さがあり、吹奏が困難な程の長管=風流飾りの尺八として描き分けられている。風流笠を被った四人は、尺八の演奏を聞かせていたのではなく、若衆髷の人物の師事に従うなどして、仮装の風流を披露する踊をしていたとみると考えられる。


こちらの解説では、風流笠を被った四人の尺八は装飾品であったと考えられるとのことです。

ということは、演奏はこの若衆一人で吹いていたのでしょうか?!

それもすごい。

四条河原の見世物芸人たちの中に加わり、何だか凄い被り物して芸を披露しているとは!

これは見習わねばなりませんね!笑

編笠じゃない何かを考案せねば…




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