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千葉県夷隅郡の虚無僧寺☆折紙寺『探墓行』👣
長光山(長広山)折紙寺
所在地
夷隅郡大多喜町大多喜城下田町折紙寺下一ノ一、一ノ二、二。三。四。五。
現在地
夷隅郡大多喜町田丁
敷地
九間四方。
畑九間×七間半。
十四間半×八間半。
廿間×十五間。
(所在地の番地がいくつも記載されているので、敷地が点在していたということでしょうか)
本寺
金先派一月寺
建物
七間×十五間
本尊
阿弥陀 春日作
歴代
不明
以上は、高橋空山による折紙寺の概要。
前回、大網白里市の清岸寺に行きましたが、尺八研究家の神田可遊師のアドバイスで、JR外房線沿線から大多喜の折紙寺にも行くことにしたのです。折紙寺も一月寺の末寺です。
めざすは千葉県のJR外房線の大原駅から、いすみ鉄道に乗り換え大多喜駅へ!
虚無僧さんのお陰で千葉県のいろんな電車に乗れます。
昨年は久留里線に乗って三黒の松見寺跡に行きましたが、今回は反対側のいすみ鉄道です。
電車だと遠回りですが、実際に道は南北にほぼ一直線で大網から大多喜まで繋がっています。古地図だと分かりやすい↓
一月寺(松戸)から船橋の清山寺、そして大網の清岸寺、大多喜の折紙寺へと、線で繋がっていますね。
さて、大多喜へ行くその前に、大原駅で腹ごしらえ。
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創業昭和元年
絶対この店、井之頭五郎氏が来てる気がする。
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お腹いっぱいご馳走様でした🙏
さて、ようやく出発🚃💨
いすみ鉄道大原駅
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車内凝ってます。
車掌コスプレのチビッコいます。
車窓からは田圃の周りに小さな山がポコポコと見え、そんな中を列車がクネクネと走っているのは、旅心をめちゃめちゃ、くすぐられますねぇ笑
途中、「コント赤信号の渡辺正行さんのご実家、やきとり みずほ分店が右手にご覧いただけます♡」なんて車内放送の案内あり。笑
大多喜駅
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さて、早速折紙寺跡地に向かいます。
途中の公園。
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日本歴史地名大系によると、
田町(たまち)
千葉県:夷隅郡大多喜町大多喜城下田町
[現在地名]大多喜町田丁
紺屋町の南、大多喜往還に沿う両側町。城下七町の一。地内を夷隅川の支流田丁川が東西に流れ、道はここで鉤形に折れている。慶安二年(一六四九)の大田喜根小屋地詰帳(小高家文書)に田町とみえ、田畑屋敷反別八町七反余。元禄郷帳では高九六石余。享保期(一七一六―三六)の大多喜城下絵図(渡辺家蔵)によれば軒数四で、屋敷間口は六・五―一〇間、東裏に大日堂・折紙寺、西裏に大聖寺があり、田丁川には金沢橋が架かる。
このように、古い地名の中に、折紙寺の記載もあります。
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尺八研究家神田可遊師より提供
因みに、ここに記載されているレストランや食堂は今はありません。
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ここですね。
まだ竹藪でした。
さらに奥はびっしり竹藪。
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グーグルマップでみるとこのように広範囲で竹藪が残っている。先程の日本歴史地名大系にもあったように夷隅川の支流田丁川が東西に流れているのだが、竹藪で見えない。道路側からも、覗き込まないと川があることが分からないくらい竹藪に覆われていました。
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虚無僧寺跡は完全に放置されているようです。
ポツンと祠がありました。
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この祠は、道か建物があった証なのでは。
さて、お次は近くの菩提寺東長寺へ。
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道標の向こうに見えるは、大多喜城!
かすかに見える。
実は、虚無僧寺跡地まっしぐらで、大多喜にお城があることさえ知らずにやってきた私は、突如として現れた城にビックリしたのでした。
清岸寺の近くの土気城趾みたく、お城の跡地があるのかと…。
お城そのものがドドンとあるとは露知らず。いやはや日本史、地理に疎くお恥ずかしい。
東長寺
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東長寺(とうちょうじ)
曹洞宗
この寺は、寺に伝えられた由緒書きによると、永正十一年(1514)の建立と記されてありますが、天文元年(1532)であるという説もあります。
開基は大多喜根古屋城主武田信清で、開山は、大岩大和尚と記されています。
武田氏・正木氏など戦国期城主の菩提所でありました。その後、本多忠勝の長男忠正の夫人熊姫の信仰篤く位牌所にもなりました。
熊姫は、徳川家康の長男信康の二女として生まれ天正八年(1590)十四歳のときに大多喜城へ輿入れをして、やがて長男忠刻・二男政朝らの生母となりました。
寺には、武田氏の系譜・城主正木大膳亮時茂の墨書銘のある蜀江錦法衣・本多家所用の御膳・熊姫愛用の金襴袈裟などが伝えられていて、県立総南博物館(大多喜城)に収蔵され、町指定文化財になっています。
平成二年三月
大多喜町
十四歳で御輿入れ...昔の女子は大変でしたなぁ。
このお寺でようやく献笛させて頂きました。
さて、
大多喜城に向かいます。
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お城まではこんな道のり。
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道に寝る猫も何だか威厳あり。
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着きました、
大多喜城!🏯
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大多喜城の歴史
上総大多喜城は、戦国時代に築かれ、小田原北条氏の滅亡に伴い、徳川四天王の一人である本多忠勝がこの地に十万石で封じられました。
城主は、本多三代のあと、阿部氏等の譜代大名が入りましたが、元禄16年(1703)の松平氏の入城以降は9代続き、最後の城主松平正質の代に明治維新を迎えました。
休館中で中に入れず残念。
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北側から🏯
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何故か城まで行く道がメキシコ通り?
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理由はこちら↓
1609年に遭難したスペイン船の乗組員を、村人たちが助けたというお話。
時の大多喜城主本多忠朝は、一行を大多喜城に招き、歓待しました。その後、江戸へ送りとどけ将軍徳川秀忠、さらに、駿府(現静岡市)では徳川家康にも謁見しています。翌1610年には家康の計らいによってウイリアム・アダムス(三浦按針)に建造させた新しい船で、一行はメキシコに無事帰還しました。
こんな良い話があったとは…。
お城を下り、お次は良玄寺にある大多喜城城主、徳川四天王の1人、本多忠勝の墓碑へ。
良玄寺の本多忠勝公墓碑
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良玄寺
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夷隅神社
![](https://assets.st-note.com/img/1705810662598-VcicPuCUtJ.jpg?width=800)
さらに、
大多喜町情報では、
役場庁舎がユネスコのアジア太平洋遺産賞を受賞したそうです。
![](https://assets.st-note.com/img/1705810716838-Wyaq4O8sGM.jpg?width=800)
なんか面白い建物です。
http://www.town.otaki.chiba.jp/index.cfm/10,407,c,html/407/20171212-180516.pdf
役場が美術館みたい。ちょっと羨ましい。
さて、
すっかり観光気分で忘れるところでしたが、
虚無僧寺の話に戻ります。
こちらの「房総志料続編」中村國香子蘭述。夷隅郡の中にも、(8頁)
長光山折紙寺。普化禅宗。田町。
とあります。
![](https://assets.st-note.com/img/1705813896501-Gr2DlGKFpE.jpg?width=800)
その他も読んでみると、城下町なだけあってか、色んな宗派のお寺がたくさんあって、興味深いです。
さらに、
上総国夷隅郡部原村江沢家文書(祭魚洞文庫旧蔵水産史料のうち)の中に、
「折紙寺取締穀代料受取覚」という文書が残されています。
https://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/08-4.pdf
(50ページ)
早速、尺八研究家の神田可遊師に「取締穀代料」について質問しましたところ、
「取締穀代料」(取締穀料とも)は、いわゆる留場証文と同様のものです。偽虚無僧などを取り締まることを条件に虚無僧寺と村々が協定を結んで年間いくらかの穀代(当初は米など穀物の場合もあったようですが〈越後明暗寺〉ほとんどが一定の現金)を支払う。その領収書の綴りが村方文書として残っている。
「留場」というのは村々の虚無僧修行(吹笛)を止める(留場)ということ。「取締場」は村々の偽虚無僧を取り締まるということ。実態は同じです。
農繁期の村々ではこうした托鉢僧や無宿者などは非常に迷惑なので、こうした協定は結構便利の側面もあったのですが、無駄な出費にもなりますのでトラブルも多かった。虚無僧寺としては重要な輸入源ですから、留場の維持・拡大には精力的に取り組んでいて、虚無僧寺同士のトラブルも起きています。偽虚無僧取り締まりのため合鑑(印鑑)を押した紙が渡してあり、これと照合して支払ったお金の領収印となって残っているわけです。
この文書から見てもわかるように、この虚無僧寺の折紙寺では、ここ大多喜で根付いていたことが分ります。
さらに、神田可遊師によると、
安永3年(1774)に、金先派(当時の一月寺院代 清山寺)の会合があったようで、大網の清岸寺と、大多喜の折紙寺も出席しているとのこと。
清岸寺は年齢は35歳の氏名が不詳の人が出席。名前が書かれていないのは清岸寺だけ。なお、観念寺は清岸寺兼帯とのこと。
出席者
西向寺=宗篤(*49歳と思われる)
普大寺=勇志(37歳・一月寺109世)
折紙寺=閣翁(70歳)
松見寺=無住
無量寺=仙長(51歳・彼の死を巡って裁判沙汰になる)
南松寺=観守(50歳・一月寺108世)
東昌寺=莫有(35歳)
大沢寺=空欄
龍山寺=無住
永福寺=留守居蘇有(44歳)
江月院=遠国遅来(九州からだと間に合わなかったのでしょう)
折紙寺の閣翁は最高齢の70歳ですね。
江月院は「遅来」ということは、船橋の清山寺に、遅ればせながらも来たのでしょうか。九州から?!
大変な旅ですね、これは。
このような会合、タイムスリップして是非見てみたいです。
一体どんな話をしたのか、どんな格好で各寺の役僧たちはやってきたのか、道中どこで泊まったのか、事細かに聞いてみたい!
やっぱり天蓋被ってきたのかしら。
ホントに尺八吹いてたのかしら。
改めて、虚無僧とは不思議な世界です。
コスパだのタイパだの全く無縁のこの時代。てくてく何日も何時間も歩いてやって来て、一体何を皆で話したのか。
あー、知りたい。
とりあえず、虚無僧がここに居たという場所に来たというだけでも満足したいと思います。
大多喜町の地酒も土産で買ったし🍶笑
注意すべきは帰りにもっと大きいサイズのお酒買おうと思っておりましたら、大原駅の売店は5時で閉まっていた為買えず…。次回は気をつけます。
以上、変わった名前の虚無僧寺、折紙寺の『探墓行』でした♪
見出し画像は、『上總國輿地全圖』
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ご協力
尺八研究家 神田可遊師
参考文献
高橋空山『普化宗史』
岡田冨士雄『虚無僧の謎 吹禅の心』
小川春夫『虚無僧寺院(普化禅宗寺)孝 資料編』
古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇