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【クリエイティブ生活】ある種のステロタイプ【小説など】


 アメリカ発のポリティカルコレクトネスは、「ステロタイプな登場人物ばかり出さない」のが決まりらしい。結果として、今まではあまりスポットライトが当たらなかった属性の持ち主やマイノリティが、重要な役割を作中で割り振られることで『エンパワーメント』されるのである。

 エンパワーメントは、簡単に言えば勇気づける、元気づけるといったようなニュアンスの言葉である。フィクションだけの話ではなく、現実の組織の中で、所属する人にいかにしてやる気を出してもらえるか、そんな場面でも使われる。

 で、そのステロタイプだが私には、ある類型的キャラクター像がある。確かに現実にもそうしたタイプはいる、それも少なからず。でも、そうしたタイプばかりでもないのを、最近までは失念していた。

 リンクを貼った我が『ウィルトンズサーガ』主人公であるが、彼こそがある種のステロタイプである。

 村長や老人といった目上の人間にもタメ口でざっくばらんな物言いと態度だが、自分自身が他の者から雑な扱いを受けたり、あからさまに意見されたりしても『多少のことでは』怒らず傷つかず、平静なままで対応出来る、というものだ。これが我が作品のステロタイプである。

 しかし現実の世の中はそんな人間や関係性ばかりで成り立っているわけではない。

 タメ口、敬語を使わないのを親愛の表れと思っていたり、単に何らかの事情で敬語の使い方を知らなかったりする。

 そうなると、その人物は、ざっくばらんな物言いなのに非常にセンシティブで、こちらの方は気を使って対応しないといけなくなってしまう。

 ただし、こちらが思う気遣いではなく、相手がそうして欲しいと思う気遣いをするのである。それは少なくとも絶対に、敬語を使うことではない。

 現実の話はさておき、まあ、そうしたタイプを主人公に据えるのはかなりやりづらい。重要な脇役でもやりづらい。

 考えてみれば、タメ口だからといって、多少のことでは傷ついたりへこまない奴とは限らないのに、そう思い込んでいた。

 それはフィクションのステロタイプの影響もかなり大きかったとは思う。

 今後ポリティカルコレクトネスで救済されるべき存在が増えるにつれて、そうしたステロタイプの正反対の存在を描く必要も出てくるのかも知れない。

 そうなれば「いや、自分が敬語も使われへんのに、こっちには気を遣って欲しいってダブスタやん」などとは言わず、相手の価値観や常識に従って、我が作中にお出しせねばならない時が来るのだろうなと、半分冗談、半分本気で思うのである。

 ここまでお読みくださってありがとうございました。あなたのクリエイティブ生活のヒントになれば幸いです。

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