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【レビュー】 The Drowned 石内都     物質と偶然と  成相肇

感傷を誘起しやすい性質の作品だと思うから、なるべくドライに書き始めたい。濡れすぎちゃいけない。

いわゆる現代美術の、作者の行為がきわめてミニマルな作品に対して、例えば「こんな、紙に線を引いただけのものが“作品”だなんてすごいですね」といったコメントをもらうことがある。それは、何やら偉そうな美術業界の価値観へのやわらかな対抗であるのだが、ならばピカソの絵画だって布の上に絵具を乗せた「だけのもの」であって、却って発言者の旧弊な作品観が露呈することになる。
そう、あるとき物質は手を加えられて「作品」と呼ばれ、それを作った者が作者と呼ばれ、さらには制作年だとか技法だとかの情報が付加されていく。いわば物質と作品とを区分けすることが近代化なのだ。人が絵を描こうとして矩形の枠線を引く、それこそが本質的な近代の始まりです、という美術批評家の藤枝晃雄の言葉を思い出す。

作品はあくまで物質ではない(だから作品キャプションには重さが表記されない)──このじつに強固な慣習ないし制度を切開することは、現代の芸術のひとつのミッションだ。作品は物質でもある。作品でありつつメディウムを意識させよ。表現の土台への冷めた視線を確保せよ。とりわけ写真は、そこに写っている物事のあまりの自明さゆえに、そしてイメージと物質があまりにぴったりとくっついているがゆえに、被写体や撮影手法に視線が強く集中する一方で物質は見え難い。そこで現代の作家たちは、写真のプリントを再度立体的に撮影したり、額装しないままのプリントを生っぽく貼り付けたり垂れ下がらせたりさせてきた。
〈The Drowned〉もまた、一種の「写真の写真」だ。写真という物質に触れたことのある者にとってさえ、じつに見えにくい「イメージ以前」の写真の姿が、台風と浸水によって露わになった。写真は紙だった。写真は破れるし、溶けるし、カビが生える。
石内都が元来写真というメディアと水との関連に意識的であったこと、そして傷や遺品に着目してきた石内の歩みの延長に〈The Drowned〉を位置づけ得ることは、前に別のところに書いた(1)。イメージが完全に失われ、もはや再起不能となった作品の残骸が痛ましいことはたしかだけれど、それらを写した写真はことのほか壮絶に感じられない。いっそ、鬱蒼と茂っているといいたいほどの何色ものカビが逞しく、ただただ写真は紙だった、乳剤を塗り込んだ紙だった、と追認させる。

そしてまた〈The Drowned〉は、シリーズという概念について考える機会を与えてくれる。シリーズは一連の複数作品を意味的に紐づけると同時に、作者の技術の証明でもある。作者は作者であるからこそ、ある能力によって同一の状況を反復して呼び出し、作り出すことができる。たまたまある一点が出来上がったのではなく、繰り返し再現できることが連作によって示される。
作品はあくまで偶然ではない(だから「タイトル」とは別に「シリーズ」がある)──〈The Drowned〉もまたまぎれもなく石内の作品である。しかしながら、このシリーズに統一を与えているのは、作者の意志とはまったく無関係な偶発的事故でもある。写された被災写真は、それぞれもともと別のシリーズ名を持っていた。だがそれは無効となり、強制的な外部の力によってまとめ上げられ、「作られ」た。新たなシリーズ名が、上から覆いかぶさった。あふれる水が、図も名も分類も関係なくそこにあるものすべてを覆ったのと同様に。だから〈The Drowned〉の壮絶さは、イメージにではなくそのシリーズ名にこそ宿っているといっていい。写真の表現とは別の深度が加わっている。名が、浸水している。

©︎ISHIUCHI Miyako, <The Drowned #2 >(部分), Courtesy of The Third Gallery Aya


被災した石内の作品のうち、特に損傷が著しかったのは画面が剥き出しの大判プリント〈1899〉(1990年)であった。祖母の指を写したそのシリーズは、「女性のまなざし 日本とドイツの女性写真家たち」(川崎市市民ミュージアム、1990年)に出品するために同館内のスタジオでプリントされた作品で、展示されたのはこの1回きりだった。それっきりで、収蔵庫で水没してしまった。(2)
《The Drowned #2 》は、辛うじて〈1899〉の中の1点のイメージが判別できる。写っていた足の指と爪、それからプリントの余白だけがはっきり見えている。全体にヴェールのように白く貼り付いているのは、画面保護のための薄葉紙だろう。部分的に印画紙ごと破れてパネルがのぞき、黄ばみが広がっている。いくつか貼り付いている別の紙は、さらに上に重なっていたプリントから剥離したものだろうか。そして、驚くべきことに、カーテン状にひだを作ったそのヴェールは、末端のところでなぜかちょうど、写された指の形を模倣するように、たくさんの指に似た形を作り出している。

〈1899〉が唯一展示された機会に、石内がカタログに寄せた言葉を最後に引こう。ちょっと出来過ぎなくらいで、ぞっとしてしまう。

「(…)時間に抱き締められている身体は時を宿すだけで分泌することなく亡び去る。そんな身体が今、愛しく感じないではいられない。/時を止めたいという古来永々と続く切ない思いは永遠の夢物語に過ぎなくとも、写真行為はそのはかない夢を白い紙の上にまぎれもなく停着させてくれる。時が一瞬止まった写真は暗室の中から永遠の時間を獲得して新たに眼の前に現れる。」(3)

いったん現れた写真が「身体」に送り返されて、亡び去り、また写真として新たに眼の前に現れた。
物質と、偶然と。作品というものの成り立ちを喚起するこの写真の誕生を、せめて奇跡と呼びたい。


(1)拙稿「水とたたかう」『明日の友』252号、2021年
(2) 〈1899〉の制作経緯や作品被災に関する石内のコメントは以下の冊子収録のインタビューを参照。『災害と文化芸術|第三の記録|令和元年東日本台風による川崎市市民ミュージアムでの写真作品の被災を語る』東京大学、2022年
(3)石内都「(無題)」(のちに「空を眺めて」と題して写文集『モノクローム』に再録)『女性のまなざし 日本とドイツの女性写真家たち』カタログ、1990年

The Drowned  石内都
2024年3月16日(土)ー 4月13日(土)
The Third Gallery Aya(大阪)
水曜-金曜 12:00-19:00  土曜 12:00-17:00
火曜 by Appointment only


なりあい・はじめ 東京国立近代美術館主任研究員。美術批評家。1979年生まれ。著書に『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』

#石内都 #The Drowned   # 成相肇  

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