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『さぼり』と『悪いヒト』の関係について:システムの限界と、それでも「さぼる」理由

「サボる」という言葉には、どこか後ろめたさ、罪悪感を感じませんか?


「サボる=悪いこと」という図式は、まるで社会に刷り込まれた呪文のように、私たちの行動を縛り付けているように思えます。

しかし、本当に「サボる」ことは悪なのでしょうか?

私はそうは思いません。

むしろ、「サボる」という行為こそ、現代社会におけるシステムの限界、そして人間の潜在能力を垣間見ることができる行為だと考えています。

「サボる」は悪ではない、むしろ...

「勉強」「仕事」といった、私たちが生きていく上で避けて通れない行為において、「サボる」という言葉は頻繁に登場します。

テスト前に一夜漬けで勉強した自分を「サボってた」と責めたり、締め切りギリギリになって慌てて仕事をする自分を「サボってた」と後悔したり。

確かに、目の前のタスクから逃げるような行為は、一見すると非生産的にも見えます。

しかし、冷静に考えてみてください。

「サボる」ことによって、私たちは新たな発見や発想を得ることができませんか?

たとえば、勉強中、集中力が途切れた時、あえて席を立ち、散歩に出かけてみる。すると、今まで見えなかった景色や、新しいアイデアがひらめくこともあるでしょう。

仕事中、頭が疲れた時、あえて休憩を取り、ぼーっとする。すると、今まで解決できなかった問題の答えが、ふっと頭に浮かぶこともあるでしょう。

「サボる」は、決して無駄な時間ではありません。それは、私たちの思考をリフレッシュし、創造性を刺激する、大切な時間なのです。

「サボる」は、システムへの反抗

では、なぜ「サボる」ことは、悪と見なされてしまうのでしょうか?

それは、現代社会のシステムが、効率性と生産性を重視し、「常に働いていなければならない」という強迫観念を私たちに植え付けているからだと考えられます。

「サボる」ことは、そのシステムに逆らう行為であり、社会的に許されない行為とされてしまうのです。

しかし、本当に私たちは、常に働き続ける必要があるのでしょうか?

人間は機械ではありません。

私たちは、休息や遊び、そして自由な時間が必要なのです。

「サボる」という行為は、そのシステムに疑問を投げかけ、私たちが人間として本来持っている自由を取り戻すための、抵抗と言えるのかもしれません。

「サボる」を許容する、新しい社会へ

もちろん、「サボる」ことには、責任と覚悟が必要です。

ただ単に仕事や勉強を放棄するのではなく、「どのようにサボるか」を意識し、その時間の使い方を工夫する必要があります。

そして、重要なのは、「サボる」という行為に対して、周りからの理解と許容が必要です。

「サボる=悪いヒト」という固定観念を捨て、個々の状況や目的、そして結果を理解し、尊重する。

それが、より自由で、創造的な社会を築くための第一歩となるでしょう。

「サボる」を肯定する、新しい価値観

「サボる」ことによって、私たちは、自分自身を見つめ直し、新たな発見をすることができます。

「サボる」ことによって、私たちは、システムの限界に挑戦し、より良い社会を創造することができます。

「サボる」ことによって、私たちは、人間としての自由を取り戻し、自分らしく生きていくことができます。

「サボる」は、決して悪ではありません。

それは、私たちが人間として生きていく上で、避けては通れない、大切な行為なのです。

「サボる」ことを許容し、肯定する。

それが、これからの社会にとって、より重要な価値観になっていくのではないかと、私は確信しています。

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