グラフィックレコーディングがもたらす『わかりやすさ』と『わかりにくさ』のあり方について
グラフィックレコーディング Advent Calendar 2019第一弾の2日目の記事です。第二弾もあるよ!
グラフィックレコードは本当に『わかりやすい』のか?
グラフィックレコーディングが爆発的に流行ったのは去年の2018年ごろからであると個人的には感じています。流行ったきっかけや理由は色々あると思いますが、大きな理由の一つに「アウトプット=残されたグラフィックレコード」があると思います。
イベントに参加された方や登壇者の方が「わかりやすい!」という言葉を付けて、SNS上で拡散していくグラフィックレコード。
それに対し、「全然わからない」という声が少しずつ上がり始め、「グラフィックレコーディングは本当に対話につながるのか?」「グラフィックレコーディングという行為自体に本当に意味があるのか?」と考えている人が増えてきたのが2019年、という流れをなんとなく感じています。
これを実感したのは2019年5月に開催されたビジュアリゼーションマウンテンクエストというイベントでした。
このイベントの中で「ビジュアリゼーションについて問いの山脈を作る」というワークがありました。
参加者がたてた様々な問いを渡り歩き、共感する問い、気になる問いにシールを貼っていきます。
シールが多く集まった問いを壁に集めたもの。
1個1個拡大して見てほしいのだけれど、ここに私が書いた問いが3つありました。
「ポジティブな気持ちでネガティブを隠してしまっている気がする」
「可視化のポジティブさとは何か?隠れてしまうネガティブ要素とは何か?」
「どうすれば可視化のポジティブさに負けずにネガティブ要素を引き出すことができるのか?」
つまり
①「グラフィックレコーディング」という行為自体が参加者や登壇者をハッピーな気持ちにする(→これは別に悪いことではない、慣れの問題かも?)
②そのハッピーさ故か、はたまた別の何かからか、描いた人に対して本音を言えない状況が発生しているのではないか?
ということです。
似た話で、「グラフィックレコーディングで議論や対話をわかりやすく記録していくことで、そこに描かれていること以外に思考が拡がらなくなる」という話もあります。一言で言えば「なるほど!わかりやすい!→終了」ということかなと。
あとは周りの雰囲気で「みんなわかりやすいって言ってるから自分のこんな疑問は言うべきではない(大したことではない)のだろう」というやつですね。
この辺りの話は以前清水淳子さんもTwitterで触れられていて、深く共感したのを覚えています。
話を戻して、他にどんな問いが共感を呼んでいたのかを見てみます。
「対話?」(=グラフィックレコーディングを入れることで本当に対話ができているのか?という話でした)
「可視化する”行為”に満足してしまうこと」
「わかりやすくする危険…?」
「何をゴールに可視化しますか」
「可視化されると分かったと直感的に思ってしまうのはどうして?」
「”わかる”ことが正しいのか?」
「参加していない人たちに文脈を共有できるのか?」
キリがないのでこのくらいにしますが、私はこれを見て、多くの参加者が「可視化」の効果に疑問や懸念を抱いているのだな、と感じました。
わかりにくいグラレコとはなんなのか?
この会以降、わかりやすく描くことの危険性に対してどう向き合っていくべきなのかを意識するようになりました。
わかりやすいのがダメならわかりにくく描いてみるっていうのはどう?いやそもそもわかりにくいグラレコってどう描く?ぐちゃぐちゃ描けばいいわけではないし…インスピレーション??抽象画みたいなものを描いてみる??とか、しばらくぐちゃぐちゃ考えていました。今思えば途中の思考が謎すぎる部分があります。(抽象画描いてみたさはあるがw)
考えがまとまらないまましばらくたち、次のお仕事に向けて準備をしていた時、ふと思いました。
「私は別にわかりにくいグラレコを描きたいわけではない。参加者が自分事化して考え続けることができる、思考停止しないグラレコを描きたいのだ」と。
自分事化して考えるために「問い」を描く
そこから私が意識的に描くようになったのは「問い」です。
これまでの私であれば、「問いの答え」を描くことを選んでいました。もちろん登壇者やパネラーが語る「問いの答え」を記録として残すことはとても大事です。
ただそれでけではなくて、登壇者が参加者に問いかけることや、モデレーターが投げかけたパネラーへの「問い」が、時に参加者に向けたものでもあることがあります。
また、セッションの中で明示的に「問い」の形で出てこなかったとしても、参加者が共感する「登壇者の主張」や「成功例」を、「この人だからできたこと」で終わらせずに、誰もが実現できるようになるには何が必要なのか?を考え、参加者に「問い」として投げかけること、そしてその問いに対して参加者が向き合い続け、行動を起こせるようになることこそが、実は一番必要なことなのではないか?と思い始めました。
こうして私は「問い」を描くことに挑戦し始めました。
グラフィックレコーディングにおける「わかりにくさ」のあり方とは
グラフィックレコードにおける「わかりやすさ」も「わかりにくさ」も一概に定義できるものではないと思っています。(図解ができていればわかりやすいのか、想像できればわかりやすいのか、記憶のトリガーになっていればわかりやすいのか。どれも正解のように思えて、どれも本質ではない気もする)
ただ、私の中で見えたグラフィックレコーディングにおける「わかりにくさ」とは、「正解がないこと」なんだと思います。
私がこれまでグラフィックレコードに残した「問い」についても、そこで問うていることにきっと正解はない。参加者がその問いに向かい合い、考え続けることにこそ意味と価値があるのだと、そう思っています。
2020年のチャレンジについて
で、問いを描くようになって実際どうなのよ?っていうところが一番大事だと思うのですが…その効果はまだ測れていません!というか、どうすれば測れるのかを考えている最中です。その仕込みを来年あたりからやっていけたら…いいな…!
参加者が正解のない問いに挑む場作りにご協力いただける方がいましたら、ぜひご連絡いただけると嬉しいです笑
2020年もよろしくお願いいたします!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?