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長かった○○期

1月のまとめ記事に、余談として母のことを書いた。

絶対に母のようにはなるもんか、と思っていた。
(中略)
やらない=社会から外れていく=母のようになってしまう!という図式があった。

渇望だった。
母のようにはなりたくない。
希望でもなく、欲望でもなく、渇望。

今まで自分を動かしてきたのは、この渇望だった。

昨年、2021年1月に気づいたのは
「母を笑顔にしたくて、母のために生きてたんだ」
ということだった。
絶望して、笑った。
自分の30数年間、何だったのかと。
自分がわからなくなった。
ばかばかしくなった。
でも、生きてる。
生きてく。
死ぬまで生きてる。
死ぬまでの期間お付き合いする自分というものが知りたくなった。
何が好きで、何が嫌いで、どんなことが楽しくて、どんなことが不快なのか。
だから昨年は
「好きなこと、好きなだけやろう!」
と掲げて突っ走ってきた。
素敵なことも最低なことも、いろいろあった。
そのどれもが楽しく、とても充実した1年だった。

そんな中で、ひとつ、よくわからない癖があることに気づいた。
人が言うことの逆も考えてしまう癖、と言ったらいいのか。
一言でいえば天邪鬼。

これは本当に厄介かつ頼もしい癖で、人とは違うことをやりたがったり、相手が言われたらいやだろうなぁということばかりを思いついたりする。
ネガティブな相手に対しては、裏側にあるポジティブな面を伝えることもある。
そして裏を考えてしまって人の好意を素直に受け入れられない。

出てくる頻度も高く、強い癖だから何なんだろうと思っていた。
1月末に冒頭の引用部分を書いてるときにふと、ただ反発したかっただけなんだな、と妙に納得した。

私は母を笑顔にしたかったけど、
同時に反発もしたかったんだ。
成長していく上で当たり前の反応だと思う。
えんらい長めの反抗期だった。

そんなわけで私を突き動かしていた渇望は消え去った。
残ったのはからっぽの自分。

渇望が強かった分の虚無感はあるけれど、何故だか去年のようにばかばかしくなったりはしていない。
ここに器ができた。
何を入れていけばいいのかはまだわからないけど、この1年で経験してきたことにヒントがあるんだろうな、と思っている。
これから経験からしていくことにも。

死ぬまでずっと、経験していくんだろうな。
私は死ぬまで生きます。

最後に

ここまでお読みくださりありがとう。
長めの反抗期だったのね、って気づいた時は笑った。
これもきっと、必要なプロセス。

これからどうなっていくのか、自分でもわからない。
わかんないけど、まぁ生きて死ぬことはわかるので、いつか死が迎えにくる時までまったりやっていきます。

それでは、また。

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